小説『波の声を聞く』
波の声を聞く
砂浜に座ると、波は静かに彼を迎えた。遠くで風が音もなくさざめき、空と海の境目はぼんやりと溶け合っている。彼はただそこにいて、波が寄せては返すその繰り返しに身を任せていた。
言葉が必要のない場所だった。波の白い縁が砂に溶け込み、また次の波が形を取り戻す。時が緩やかにほどけ、目に見えない糸が絡まった心を撫でていく。
静けさの中の音
耳を澄ませば、波の音にはさまざまな色があるように思えた。穏やかな青、灰色がかった緑、そしてその合間に溶け込む微かな白。それは一瞬一瞬で形を変え、けれどその調和は崩れることがない。
彼の中にも、同じような音が響いている気がした。何かを求める声と、それに答えようとする静かなさざめき。波の音と混ざり合い、その区別は次第に曖昧になっていった。
消えゆくもの、残るもの
波が引くとき、砂に残された跡がゆっくりと消えていく。その痕跡は一瞬のものだったが、彼にはそれが特別に思えた。跡が消えるたび、新しい波が同じ場所に違う形を描く。その繰り返しの中で、彼は自分の中にも似たものがあると感じた。
記憶や思い出、未解決の問い。それらは一つひとつ波にさらわれるようにして消えていくが、消えることそのものが、新しい何かを迎え入れる準備に思えた。
夜明けの波
ある朝、彼は夜明けの海を見た。水平線の向こうから、薄紅色の光が差し込む。その瞬間、波がまるで穏やかな祝福のように見えた。
彼は立ち上がり、最後に砂浜を振り返った。波の音はまだ続いていたが、その音がこれからも遠くで響き続けることを知っていた。そしてそれが、自分の中にも静かに流れていることを感じた。
何かを悟ったわけでも、答えを見つけたわけでもない。ただ、彼はその場を去り、また次の波がやって来ることを心のどこかで信じていた。
波は、そこにあるだけで十分だった。そして、彼もまた。