こんにちは。よっしーです。
今回は「無我」何ものでもない自分をテーマにお話したいと思っています。
実は、先日私が管理しているブログのアクセス数が急に増えて気持ちざわつく出来事がありました。
その時は、わっ、嬉しい!と思ったのですが、
それから、1時間おきくらいにアクセス数を確認するようになったんですね。
アクセス数が伸びているうちは感じなかったのですが、下がった時に何ともいえない不安感を感じたんです。
何が問題だったのだろう、どうすればまた伸びるのだろうとあれこれ思ってしまっていました。
今思えば、この何ともいえない不安感というのは、「アクセス数が自分の評価」であるような錯覚をしていたのだと思います。
そして、アクセス数に執着している自分に気付くことができましたので、瞑想をして心を落ち着け、「何ものでもない自分」ということを思い出したところ心が楽になっていきました。
私が配信を行う目的というのは「心を解放して楽になっていただきたい」というものであるにもかかわらず、アクセスに執着してしまうという皮肉な出来事を通して、こんな自分もあるのだなと思えた貴重な経験でした。
この執着する状態は、仏教用語でいうところの「我執(がしゅう)」に近かったように思います。「
我執」とは「我」に執着の「執」と書くのですが、
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自分がいつまでもあり続けると思い込み、自分は一人で生きていると思い、なにもかも自分の思い通りになると思い込んでいること
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という意味です。自分ひとりで生きているとは思わないまでも、自分の思い通りになるという傲慢さがそこにあったように思います。
「我執」を手放して「無我」でありたいと思いました。
茂木健一郎さんの「生きがい」という書籍の中で永平寺の修行僧(雲水さんといいますね)について触れられている一節があります。
その中で、
「修行僧はまるで匿名の存在、目に見えない人物となり、個性など何の意味もなさないものになる。自意識に重きをおく観光者とは顔つきの違いは明らか」
といったことが書かれていました。
永平寺に行ったことのある方はご存知かと思いますが、他とは違う時間の流れを感じる美しく荘厳な空間です。
その中に自分が自分がではなくて、自分は何ものでもない、この空間の一つである、そう思えたら心が解放されるのではないかと推測しました。
何かに意志をもって取り組むことはとても尊く大切なことだと思います。
ただ、もし「執着」を感じているのなら、一旦その執着を手放すと楽になるかもしれないなと思います。
NHKの「禅の里 永平寺」という番組がYoutubeで公開されています。リンクを貼っておきますので、ご興味がある方いらっしゃいましたら是非!
襟を正したくなる気持ちにさせてくれます。
◇ 「禅の里 永平寺」
https://www.youtube.com/watch?v=B2cmH0IYCMM
この度も最後まで聞いて頂いて有難うございました。