■情熱の喪失
私たちはどんなふうに情熱を失ってきたかということがあると思うんです。
それはアーリートラウマにつながるところなんだけど、例えば、先日も海に来ていて、足元に寄せては返す波を見ながらふと湧いてきたんですよね。
ああ、私はこの波にじわーっと濡れてみたかったなってね。
靴を履いたまま濡れてみたかったっていう意味です。
そうなんです。
いや、やったことないですよ、たぶん。
それはしてはいけませんって教わって、それを守って生きてきた。
だから海に入るときは、靴を脱いで裸足になって海に入ります。
■幼児のパッション
多くの人がそうだと思うけど。
でも幼児のパッションって、好奇心も気だし、わー、なになに?
これなに?
うわー、波さんだー。
うわー、来る来る来る来る、こっちに来るー。
うーん、どんな感じかなーって呼ぼうときに、靴を脱ぐっていう発想はないわけです。
もしもそのまま動かないままだったりしたら、歯って抱き上げられて、濡れるでしょって言って抱き上げられたり。
ダメよ、こっちにいらっしゃいとかって手を引かれたり。
まあ、万が一濡れてしまったら、ダメでしょ、靴脱がないとダメなのよって言われたりしちゃうんですよね。
そのとき言葉は、わー、波さん、波波ー。
くらっちゃって、もう凍っちゃう、凍りついちゃう。
パッションが凍りついてどこかに行っちゃう。
そして、お母さんの、お父さんの言い付けは守らなくてはいけません。
そして、靴のままでは濡れないっていう選択をしてきたわけですよね。
で、そのときに何が起こっていたかというと、
■純粋な好奇心の喪失
純粋な好奇心、わくわく、パッションを失ったっていう表現がいいのかなと。
ぐっと我慢、ぐっと凍りついた中と同時に、その中に閉じ込めちゃった感じですかね。
で、それがこの間、情熱を表現したいんだっていうところにつながった後、波の前でそんな体験をしました。
で、似たところで言うと、ちっちゃな子どもが水たまりに入ってパシャパシャパシャってやってる。
場面はあまり見ないけど、一回見ましたがね。
動画でね、そういう場面とか。
中には水たまりでドロンコになってビチャビチャになっている子とかいたら、最高に嬉しくなってしまって、これやりたかったんだなっていうのがね、ひしひしと分かる?
■パッションの取り戻し
で、そういうパッションを取り戻しましょうっていうこと。
まあ、波に靴のまま濡れてみてもいいですよ。
でも靴のまま濡れたらどうかっていうのが、なんかもう想像できちゃうよね。
波には濡れたことはないかもしれないけど、雨でビチャビチャになった運動物とか気持ち悪いのも知っているし。
まあ、やってもいいけど。
まあ、とにかくそうやって。
で、そこでもう一つ失ったものは、やってみて、あ、これは嫌だな、だとか、これは失敗だなっていうことを自分で感じて感じる、自分でやってみて分かるっていう体験も取り上げられているっていうことなんですが、ある意味そうなんですよね。
それは愛だし、安全への範囲でだから、親の方から見たらそうだし、実際それを私たちは受け取っているんだけど、その物事は一面的ではない?
いろんなところから光を当てることができるとしたら、あるところから見ると取り上げられたるんですよ。
だからそれは誰が言い悪いじゃなくて、もしそうだとしたら取り戻すことができる、取り戻していいっていうところに行けばいい。
■パッションと自己受容
そして、そう決めたらパッションにつながって、波に濡れてもいいし、濡れなくてもいいし、今、今自分のパッションは何なんだろう。
そしてそれを生きるっていうことを、どんなに小さなことでも選ぶっていうことを、自分に受け入れる、自分に許可する、それを選択する、それを行動するっていうのが、本当の願いを生きるっていうことに、本当の気持ちにつながって魂の望みを叶えるっていうところに、つながっていくというか、ほぼほぼイコールというか、そんな感じだからね。
と思う朝でした。
良い週末をお過ごしください。
#情熱を生きる
#アーリートラウマ解放
#魂のよろこぶ生きかた