語学学習の場でしばしば見られる逆説的な現象――
知的で、論理的思考力が高い人ほど、外国語の「会話」に苦しむ。
語彙力はある。
文法も知っている。
論理的には言いたいことがある。
それでも、実際の会話になると話せない、聞き取れない、通じない。
なぜこれほどまでに、「賢さ」と「語学会話力」がすれ違うのか?
その根本的な理由は、「論理的な思考」と「言語による共感」が、本質的に別種の営みであるという点にある。
本稿では、ロジカルシンキングな人が会話でつまずく構造的要因を明らかにし、なぜ外国語になるとその困難がさらに倍化するのかを掘り下げる。
1. 論理的思考は「構造の共有」を求める
ロジカルな話は、以下のような要件がそろわなければ成り立たない:
前提の明確な共有
定義語の一致(例えば:「自由」とは何か)
文脈に沿った論理の積み重ね
このように、論理的な思考は**前提・構造・用語の意味までを「相手と共有すること」**が前提となる。
しかしこれは、同じ言語を話している者同士でさえ難しい。
特に哲学や抽象的な議論になれば、「同じ言葉を使っていても話が通じない」ことは日常的だ。
2. 外国語では「言語の壁+文化の壁」が加わる
この難しさに、外国語という**第1の壁(言語)**が加わる。
単語や文構造の処理に負荷がかかる
話すスピードに追いつけず、文脈の流れを見失う
文化的背景の違いにより、言葉の意味合いがずれる
さらに、第2の壁=文化的な価値観の非対称性が加わる。
「論理的」とされる説明方法が文化によって異なる
「前提を共有する」こと自体が、日本語文化と欧米言語圏で違う
「言い過ぎないこと」や「行間を読む」文化では、論理的説明はむしろ冷たく、押しつけがましく感じられることもある
3. 論理的な会話は「成立条件が厳しすぎる」
結局、ロジカルなコミュニケーションは以下の3つが同時に満たされて初めて成立する:
1つめ、言語的に明確に伝えられる(語彙・文法)
2つめ、論理構造をリアルタイムで相手が追える
3つめ、文化的背景・価値観がある程度一致している
これを母語以外で、しかも異文化の相手に対して同時に求めるのは、極めて困難だ。
同じ言語でも成立しづらいロジカルな会話を、わざわざ“外国語+異文化”という二重の壁を用意して挑む――それは破綻が必然である。
この構造的困難に気づかないまま、「自分の英語力が足りないせいだ」と思い込んでしまう人は多い。
4. 会話は「ずれ」の調整であり、共感の反復である
外国語の会話力とは、正確さや構造性よりも、ズレに柔軟に対応できる力に近い。
つまり:
「通じなかったら言い直す」
「相手の反応を見て話を変える」
「わからない単語が出ても文脈で想像する」
このような即興的で動的な応答力こそが、実践的な会話力の核である。
しかし、ロジカルシンキング型の人は「通じない=失敗」「構造が壊れる=負け」と受け取りがちで、逆に言葉が出てこなくなる。
結論:賢さと会話力は別物である
語学においては、「知的な完成度」より「未完成でも投げかけられる力」のほうが価値がある。
論理的に考えられるという能力は、確かに非常に大切だ。
だが、会話は“共感と柔軟さ”によって成立する別の領域のスキルだ。
そして、その成立条件は言語・文化・関係性という不確定要素に満ちている。
ゆえに、ロジカルな人が会話でつまずくのは当然なのだ。
問題なのは能力ではなく、期待の構造のほうにある。
「伝える」ことと「通じる」ことの間には、言語では埋まらない隙間がある。
その隙間を恐れず、ズレや誤解を受け入れるところから、**本当の意味での“語学会話力”**は始まる。