■ 形式主義が支配する教育現場
現代の教育現場では、「単位」という制度的評価基準が、教師と生徒の関係性を構築する中心に据えられています。
本来、単位とは、学びの過程を記録し、次の段階へ進むための通行証であるはずです。
しかしいつしかそれは、「単位を与える側/与えられる側」という上下関係を作り出す装置になってしまいました。
教師が単位を「マウント(支配)」の手段として用いるとき、生徒に本質的な学びを届けることは困難になります。
単位を得ることが目的化された環境では、教師もまた、生徒の顔色を伺いながら「嫌われない授業」を優先し、本当に伝えるべきことを遠ざけてしまうのです。
■ 本質的教育とは「望まれなくても伝えること」
教育の現場において、「正しい教育」とは何でしょうか。
それは、時として生徒本人が望まないことであっても、彼らの人生に必要な価値や問いを責任を持って届けることです。
子どもたちが反発する内容、拒絶するような話題でも、それが本質であるならば、単位という制度的手段を用いてでも届ける。
それが教育者としての矜持ではないでしょうか。
信頼のないところでは、このような教育は成立しません。
生徒が教師を「評価者」としか見ず、教師も生徒を「成績対象」としか扱えない関係の中では、学びは数値化されるだけの記号になってしまいます。
■ 単位は“媒介物”であり、教育の本質ではない
本来、単位や評価は、教育の目的ではなく「教育の媒介物」です。
生徒が単位を得ることで成長の手応えを感じ、学びが社会に認識されるための仕組み。
それ以上でもそれ以下でもありません。
ところが現代の教育制度では、その媒介物そのものが目的となり、「単位が取れるか/取れないか」という議論に終始する場面が非常に多く見受けられます。
これはまさに、成果至上主義による教育の本質的貧困を象徴していると言えるでしょう。
■ 信頼なき構造が招く社会的連鎖
この構造は教育現場に限らず、社会全体にも波及しています。
給与を振りかざして社員教育を行う企業、成績や偏差値でしか子どもを見ようとしない親、資格や実績で人間を序列化する社会——これらはすべて、「外的報酬がなければ成長を促せない」という考え方に支配されています。
こうした社会では、「何のために学ぶのか」「なぜ成長しようとするのか」という根本的な動機が外部化され、主体的な学びや内的な探究心が枯渇してしまいます。
■ 教育の再定義に必要なもの
教育とは、「信頼にもとづき、相手の未来を信じて“ぶつける”行為」であるべきです。
単位や成績という制度的枠組みの中でも、私たち教育者が本当にすべきことは、目先の評価ではなく、長い時間をかけて効いてくる“価値ある問い”を届けること。それは時に、生徒の拒絶に遭うこともあるかもしれません。
けれど、それでも伝えるという覚悟が教育者には求められるのです。
制度は必要です。
しかし、制度に従う教育ではなく、制度を超える教育を考えることが、今の教育者に求められている責任だと、私は強く思います。
◆ 終わりに
評価や単位が目的となる教育の構造を温存し続ける限り、日本の教育はその本質を失い続けます。
教育は制度ではなく、信頼と責任に基づく関係性です。私たち教師が、その本質に立ち返ることができるかどうか——それが、子どもたちの未来と、社会の豊かさを左右する分水嶺なのです。