「自己肯定感を育てましょう」
教育や子育ての場面で、今やこの言葉を聞かない日はない。
それは、子どもたちの自己否定や無力感の広がりに対する、社会的な反応として当然の現象なのかもしれない。
しかし、私はあえてこう言いたい。
自己肯定感を「目的」として扱ってはいけない。
むしろそれは、他の力の“副産物”として「結果的に育まれる」ものである。
教育が目指すべきは、もっと別の軸にある。
自己肯定感は「前提」であり「結果」である
自己肯定感とは、「自分には価値がある」「私はここにいていい」という感覚だ。
これは人が安心して成長するための土台であり、特に幼少期においては不可欠な“心の安全基地”である。
だが、注意すべきはこの感覚があくまで「情緒的な状態」であるという点だ。
他人との比較や社会的な評価によって簡単に揺らぐものであり、それゆえに不安定だ。
これを教育の最終目的に据えてしまうと、表面的な承認のやり取りや、“傷つけない”ことが至上命題となり、子どもはかえって挑戦から遠ざかる。
本来、自己肯定感とは、他者の承認ではなく、**「自分が選んだ」「自分でやり遂げた」**という積み重ねの中で、静かに芽吹いていくものではないだろうか。
教育が目指すべきは「自己決定感」と「自己効力感」
では、教育が介入できる本質的な力とは何か。
ひとつは自己決定感である。
「これは自分が選んだことだ」と思える感覚。
これは、外から与えられた課題であっても、自らの納得を持って取り組むことができるという、内発的な動機の源泉となる。
もうひとつは自己効力感である。
「やればできる」「自分には達成できる見込みがある」という実行への予測的信念。
これは挑戦や困難を乗り越える力の中核であり、行動を継続させる力そのものである。
これら2つの力は、いずれも教育実践によって具体的に働きかけることができる。
選ばせる。
考えさせる。
挑戦させる。
小さな成功を積ませる。
失敗の意味を共に考える。
その繰り返しの中で、**「私は私のままでいていい」**という感覚が、静かに、確かな根拠を持って立ち上がってくる。
自己肯定感に“根”をつくるために
教育とは、ただ子どもを肯定することではない。
肯定されるに値するような「自己との対話」や「自己との折り合い」を子どもが自ら行えるようになること。
そのためには、「選ぶ力(自己決定感)」と「やり抜く力(自己効力感)」の両輪を育てることが、なにより重要である。
私たちはつい、「傷つけない」「失敗させない」ことに力を注ぎすぎる。
だが、自己肯定感の“根”は、そうした温室では育たない。
むしろ、不確かで揺らぎのある現実の中で、自分の選択と実行に向き合った時、初めて強く深く根を張る。
終わりに:目的を誤らないことが教育の第一歩
自己肯定感は目的ではない。
それは、**自ら選び、自ら行動する人間が、結果として得る「存在の肯定」**である。
教育の焦点はそこに置かれるべきだ。
だからこそ私たちは、
子どもに「選ばせること」
子どもに「やらせてみること」
そして「それを信じること」
これらを、改めて教育の中心に据えなければならない。