ある日、私は市場で手に入れた一袋の備蓄米――いわゆる“ビチクマイ”を炊いて食べた。
それは、古米とは思えぬほど香り高く、粒立ちが美しく、心に染みる味だった。
この米が今、1キロ58円で売られている現実を前にして、私の中でひとつの疑問が立ち上がった。
「この米が58円であることの、何がいけないのだろう?」
◆ 1. 値段は落ちても、価値は落ちていない
備蓄米とは、災害や食糧危機に備えて政府が保管してきた米である。
一定年数が経てば、風味の劣化や流通事情などを理由に、一般向けに“安価で”放出される。
それが「58円の米」の正体だ。
しかし、実際に口にしてみれば、それは「安いから価値が低い」という単純な話ではない。
この米には、農家の手間も、日本の水と土も、技術も、そして国の制度設計さえも込められている。
価格が安くなったからといって、その本質的な価値が落ちたわけではない。
◆ 2. 家畜が美味しい米を食べるという循環
多くの備蓄米は、人が食べずに家畜の飼料として利用されている。
ここでまた、疑問の声が上がることがある。
「そんなに美味しい米を、家畜に食べさせるなんて、もったいないのではないか?」
だが、この問いこそが、直線的な思考の限界を示している。
家畜は、私たちの命を支える存在だ。
彼らが質の高い餌を食べ、健やかに育つことで、私たちの食卓に還元される。
つまり――美味しい米は、美味しい命に変わり、また人間の身体に還元されていく。
これは命の循環であり、美意識の連鎖であり、持続可能な価値の形だ。
◆ 補足:玉木代表の“備蓄米=エサ”発言に見る、政治家の言語感覚
2025年6月、国民民主党・玉木代表の発言が物議を醸した。
「(備蓄米が)家畜のエサに回されるぐらいなら、国民の食費の足しに」という趣旨だった。
一見、庶民感覚に寄り添う言葉に聞こえる。
だがこの発言は、意図せずして「エサになる=価値が下がった」「人間に回らない=もったいない」という発想を露呈させてしまった。
これは、単に米の行方を問題視したというより、価格や流通経路によって“価値”をジャッジしてしまう認知の問題である。
● 反省コメントに見る“政策回帰”の限界
玉木代表はその後、反省の意を表し、「手取りを増やす政策をさらに進めたい」と述べている。
これは経済的合理性への“軌道修正”であり、政策の根拠としては一貫している。
しかし、忘れてはならないのはこの一件が、
食の哲学
命の連鎖
人間の感性
といった政策の外にある“文化的インフラ”への理解の乏しさを国民に印象づけてしまったことだ。
◆ 問題の本質は「モノの扱い方」ではなく「命の連なり」への想像力
備蓄米が家畜の餌になることは、廃棄を防ぎ、循環型農業やアニマルウェルフェアを支える、理にかなった施策でもある。
その背景を知らず、あるいは“家畜=格下”というヒエラルキーの中で価値判断をしてしまうなら、それは「命の巡り」を矮小化することにつながる。
政治家の発言とは、単に政策の羅列ではない。
それは時に、国民の「命や暮らしの意味づけ」そのものを左右する社会的言語の標準となる。
だからこそ、「美味しい米が家畜に食べられる」という事実を、
どう受け止め、
どう次に語るか
には、その人の感性の成熟度が反映されるのだ。
◆ 結語(再強調):価格で測れないものを、感性で守る
玉木代表の発言が物議を呼んだのは、失言だからではない。
それは**“価格によって価値が決まる”という通念に疑問を持つ人々の想像力を、裏切ったから**である。
私たちが今守るべきは、58円の米ではない。
その58円の裏側にある、命のネットワークと、食の循環に対する敬意である。