「察する」は人間が集団で生きてるから発達した能力でしょうから、日本に限らず世界中どこでも「察する」を求められるだろうと思います。コミュニティの構成員に変化のある東京より変化の少ない京都なり田舎なりはより「察する」を求められるし、逆に移民の国だったかつてのアメリカは「察する」が少なかったろうと思います。
日本の映画やアニメなりがフランスでウケたりするのも、フランスが日本と同程度の「察する」文化だからで、アメリカの映画が子供向けでくだらないものに見えがちなのは、アメリカが多民族で共有感覚が少ない国であるが故に「察する」の少ない分かりやすい物語しかアメリカで成立しないからではないかと。逆にそのせいでアメリカはグローバルになれました。でもそのアメリカも時代と共に概念共有が進み、少しずつ普通の民族国家化してきてて、ロボにも暮らしやすかった昔のおおらかなアメリカはなくなりつつあるように思います。
自閉症スペクトラム障害(ロボ特性)のために「察する」が苦手でコミュニティの中で浮いて困ってる患者さんには、多民族国家なりなんなりのなるべくモザイクな環境に移行するように勧めてます。あるいはエンジニアとか医者とか弁護士とか大学の研究室とか、「察する」が苦手な人ばかりで比較的「察する」を必要としないコミュニティで生きていきなさいと。
民族や言語が違ってても時間と共にコミュニケーションが深くなって「察する」を求められ始めます。だから時期が来たら相手が変わる、留学生向けの寮の管理人とかで上手くやってる人とかも居ます。
極端な例を挙げてみました。