「ありがとうの花」
春の終わり頃、古い坂道の途中に、小さな花屋があった。
看板には、
「ありがとうの花」
とだけ書かれている。
店先には、色も形も違う花が並んでいた。
赤い花、白い花、少し曲がった花、小さすぎて見落としてしまいそうな花。
その前を通る人は、みんな少しだけ不思議そうな顔をする。
「ありがとうの花って、どんな花なんですか?」
ある日、仕事帰りの青年が店主のおばあさんに聞いた。
おばあさんは優しく笑った。
「ありがとうって思えた瞬間に咲く花だよ」
青年は首をかしげた。
「そんな花、見えませんけど」
「うん。心が疲れてると、見えにくいからねぇ」
青年はその日、少しだけ苦笑いして帰った。
――でも、その夜。
コンビニで温かいお茶を買った時、
店員さんが「お気をつけて」と言ってくれた。
疲れていたはずなのに、
その一言が妙にあたたかかった。
帰宅すると、
脱ぎっぱなしの毛布がちゃんと畳まれていた。
母が黙ってやってくれていたらしい。
窓を開けると、
夜風が少しだけ春の匂いを運んできた。
青年はふと立ち止まった。
「ああ……」
こんな小さなこと、
今まで当たり前だと思っていた。
次の日、また花屋へ向かった。
すると昨日まで気づかなかった小さな黄色い花が、店先に増えていた。
「花、増えてません?」
おばあさんはうなずく。
「昨日、誰かがありがとうって思えたんだろうねぇ」
青年は店を見渡した。
よく見ると、どの花も少しずつ違う。
誰かが作ってくれた朝ごはんの花。
遅い電車を待ってくれていた友人の花。
疲れている日に届いた“お疲れさま”の花。
眠れない夜を照らした月の花。
大きな花も、小さな花もあった。
派手な花も、
道端にそっと咲くような花もあった。
でも、どれも不思議なくらい綺麗だった。
青年は気づいた。
幸せは、
特別な日にだけ咲くものじゃない。
「ありがとう」は、
探すものじゃなく、
もうすでに、自分の周りにたくさん咲いているのだと。
帰り道。
名前も知らない小さな白い花が、
アスファルトの隙間から咲いていた。
青年はしゃがみこんで、少し笑った。
「今日も咲いてるんだな」
その瞬間、
胸の奥に、また一輪。
静かで、あたたかい花が咲いた。