【雨音に溶ける足跡】
窓ガラスを静かに濡らす雨音を聴きながら、私は温かい飲み物のカップに両手を添えている。
いつものお店の、奥まった席。
ここは、私の日常という戦場から少しだけ離れられる場所。全方向に向いた緊張感から解放され、一人の人間として、ただ静かに流れる時間に身を委ねられる空間だ。
ある人が私に言った。
「挫折を知らない」
表向きにはそう見えていたのだろう。
ある意味、そうかもしれない。折れることすら許されなかった。
しかし、誰の人生にも、他の人の目には触れない「裏側」がある。
振り返ってみれば、私のこれまでの道のりは、まさに波乱万丈そのものだった。神に祈り、たくさんの智慧と知識と専門家に助けられることもあった。
たった一人で、嵐の中に立たされているような心細さにもじっと耐え、奥歯を噛み締めた。
わざわざ経験しなくてもいいようなこともたくさんあった。
けれど、そんな激しい日々の中でも、私の心の奥には、たとえ遠くても行き先を照らしてくれる、一つの光があった。
ただその存在が、常にそこにあるということ自体が、私の人生の荒波を切り抜けるための、唯一無二の灯台になってくれていた。
❅
雨粒が、いくつかの軌跡を描いては消えていく。
特にこの10年、15年は怒涛のごとく色々なことに見舞われた。
張り詰めた日々の中で、ふと孤独が胸に染みるような日も、なかったと言えば嘘になる。
けれど、今、こうして雨の日の静寂の中で、これまでの人生と自分の心を客観的に見つめ直してみると、胸の奥から湧き上がってくるのは、ただ一つのシンプルな感情だった。
その想いだけが、濁りのない水のように、内側に深く満ちている。
私の人生の荒波は、もっと冷たく、もっと過酷なものになっていたかもしれない。
誰にも言えないことを抱え、傷だらけになりながらも、私が全ての優しさを失ってしまわずに生きてこられたのは、いつも変わらず、温かいその光があったからだ。
目立つ場所ではないけれど、今も色褪せることなく、私を裏で支え続けてくれている。
「ありがとう」
声には出さず、心の中でそっと呟いてみる。
誰もが皆、それぞれの空を見上げている。それでも、たとえこんな雨の日であっても、この温かい確信は、きっと特別な空気として繋がっているのだと信じている。
❅
ドアの開く音で、現実の気配がお店の中に戻ってくる。
カップを傾け、冷めかけた最後の一口を飲み干した。
振り返った自分の物語は、少し切なくて、けれど驚くほど温かく愛おしいものだった。
そのすべてが、今の私という人間を深く、魅力的にしてくれる大切なピースとなればその経験も無駄ではなかっただろう。
時計を見る。そろそろ、いつもの日常に戻る時間だ。
私を待っている場所へ。
胸の奥のほうに改めて大切なその光をそっと仕舞い直して、席を立った。
お店を一歩出ると、雨上がりの少し澄んだ空気が、私の頬を優しく撫でた。
少しでもたくさんの笑顔と共に、心穏やかに過ごせますように。
あなたも、私も。
2026.7.1
🎵 #甘茶の音楽工房 さん
✏️ Art by Gemini