第1話 9月11日 日経平均 マイナス1,259円
夜明け前の東京
午前5時23分
東京はまだ眠っている。
地上数百メートル。 都心のタワーマンション最上階。
美香はカーテンを開けた。
巨大な窓の向こうに、夜明け前の東京が広がる。 東京湾まで見渡せる。
今日も綺麗だ。
そして美香は思う。
今、地震が来たら最悪。
だからここ嫌なのよ。
美香は東京の絶景に背を向けた。
仕事だ。
黒須美香。
東京の外資系証券会社で日本株を扱うエクイティ・セールス。 相手にするのは、世界中の機関投資家だ。
東京が開く前にニューヨークを読み、東京が動けば世界へ伝える。
その世界で、美香はトップクラスの成績を上げている。
ダイニングには、家政婦が用意した朝食が並んでいる。
焼きたてのクロワッサン。 オムレツ。 スモークサーモン。 サラダ。 色鮮やかなフルーツとヨーグルト。 淹れたてのブラックコーヒー。
ラグジュアリーホテルさながらだ。
違うのは、大理石のテーブルに置かれた大量の資料とタブレット。
美香はクロワッサンをちぎりながら、ニューヨーク市場を開いた。
ダウ、マイナス316ドル。
NASDAQ、マイナス171ポイント。
次に米国債。
10年債利回りは上昇。
原油は依然として高い。
ドル円。
SOX――フィラデルフィア半導体株指数。
NVIDIA。
半導体製造装置株。
CME日経225先物――米シカゴ市場で取引される日経平均先物。
一通り確認してから、もう1度原油へ戻る。
そこから米金利。
NASDAQ。
SOX。
美香の頭の中で、数字が1本の線になった。
中東情勢が悪化する。
石油の供給や輸送に不安が出る。
原油価格が上がる。
ガソリンや電力、物流、工場のコストが上がる。
物価が下がりにくくなる。
そうなれば中央銀行も金利を下げにくい。 むしろ利上げへの警戒が強まる。
金利が上がれば、将来の成長を大きく織り込んで買われている高PER株――利益に対して株価が高く評価されている成長株――には逆風になる。
昨夜NASDAQが弱かった理由は、そこか。
では東京は?
まずAI・半導体には売り圧力。
輸出株は円相場を警戒。
銀行や保険には金利上昇が追い風になりやすい。
原油高が続けば、鉱業など資源株にも買いが向かいやすい。
海運は別だ。
見るのは原油ではない。
運賃だ。
バルチック海運指数――世界のばら積み船の運賃動向を示す代表的な指数――は高水準にある。
海運市況への期待が続くなら、こちらも資金の受け皿になり得る。
問題は、その通り市場が動くかどうか。
ニューヨークからの電話
スマートフォンが鳴った。
クリス・ウォーカー
画面に浮かんだ名前に、美香はすっと背筋を伸ばした
ニューヨーク本社のエクイティ・セールストレーダー。 米国市場の引け後、美香が最初に話しておきたい相手の1人だ
「Morning, Chris. You survived?」
(おはよう、クリス。生き残った?)
『Barely. Tech had a rough one.』
(ギリギリな。テックはひどかった)
「Semis?」
(半導体は?)
『Weak. Rates didn't help.』
(弱い。金利上昇も逆風だった)
美香は米10年債利回りをもう1度確認した。
「Financials?」
(金融は?)
『Held up better. Energy too.』
(相対的には強かった。エネルギーもな)
それで十分だった
ニューヨークで見えていたものと、美香の画面に並ぶ数字は一致している
高PERの成長株から、金融やエネルギーへ
資金が移っている可能性がある
「Send me your close notes.」
(引け後のメモ、送って)
『Already did.』
(もう送った)
美香は少し笑った
「Perfect. Talk later.」
(完璧。またあとで)
『Good luck, Mika.』
(幸運を、美香)
「Don't need it.」
(必要ないわ)
通話を終えるころには、クリスのクロージングノートが届いていた
美香はコーヒーを片手に目を通す
米国株。 国債利回り。 原油。 半導体。 金融。 エネルギー
そこに特別な秘密が書かれているわけではない
重要なのは、同じ数字をどうつなぐかだった
米長期金利が上がり、高い成長期待を織り込んできたテクノロジー株が売られた
そこへ原油高が重なる
エネルギー価格が上がれば、インフレが長引くとの警戒が強まり、金利低下を期待していた投資家には都合が悪い
一方で金融株は相対的に崩れていない
エネルギー株にも買いが残っている
美香は東京市場に置き換えた
今日の東京も、指数だけを見ていては駄目だ
AI・半導体にはニューヨークの弱さが波及する可能性が高い
輸出株は為替次第
金利上昇を追い風にできる金融
原油高を利益につなげやすい資源
運賃市況が支える海運
資金の向かう場所が、はっきり分かれるかもしれない
美香は資料を閉じた
仮説はできた
あとは9時から、市場そのものに答えを聞けばいい
時計を見る
5時41分
朝食を終えると、シャワーを浴び、手早くメイクと髪を整えた
鏡の前でジャケットの襟を直す
無駄のないラインの濃紺のパンツスーツが、長身の美香によく似合っていた
バッグを取り、玄関を出る
寄り前
午前7時48分
オフィス
美香がフロアを横切る
長い脚に細身のパンツスーツ。 颯爽と歩く後ろ姿だけなら、若い男性アイドルのようにも見える
自席に着く
6枚のモニターを立ち上げる
つづきはnoteへ
https://note.com/_sally_/n/n1505e4dbadf3
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