こちらは日暮里ゼミナールの補講の第84回となる#169です。
今回は、女性リスナーから届いた「おじさんたちが話しているのを聞いていると、粋と野暮の話に聞こえる」という声をきっかけに、「粋と野暮とは何か」をじっくり掘り下げることになりました。
まずは粋と野暮の辞書的な定義から。「気質や身なりがさっぱりと垢抜けていて、さりげない色気や気風の良さを感じさせる日本の美意識」が粋であり、「人情の機微がわからず融通が利かないこと」が野暮だそうですが、ぼくらの感覚とはどうもズレています。
ぼくの感覚では、粋というのはもっとビハインド(劣勢)な状況から始まっていると思うのです。負け戦だったり、自分の状況が好転するわけでもないのにやせ我慢して強く出る「武士は食わねど高楊枝」の精神や、ブラジル音楽のサウダージのような感覚こそが粋の本質ではないかと。
そこから議論は「何をすれば粋で、何が野暮なのか」へ。
寿司屋でマグロを一貫だけつまんですぐ立ち去るとか、蕎麦屋でビールを頼まず日本酒を引っかけるといった江戸の仕草も、「こうするのが通で粋なんだろ」と意識して演じた瞬間にただの“野暮な粋ごっこ”へと成り下がってしまいます。狙いやマウンティングが見えたら一発で野暮。本人がまったく粋だと思わずに自然体でやっていることや、自分のためではなく他人が損をしないように動く利他の精神こそが、結果として粋に見えるわけです。
さらに話は、伝統芸能とパンクロックの構造論へと発展しました。
パンクのようにその一瞬の初期衝動でしか成立しないものは、型として定着してファッションやアイコンになった時点で死んでしまう。一方で、落語や歌舞伎、水戸黄門やウルトラマンのように、毎回同じ型を繰り返す一見すると一番野暮ったい様式美であっても、時流に迎合せず何十年も貫き通して一周回ると、それは途方もない粋へと反転していくのではないか。
最後に、AI時代の粋として「AIの適当な回答を鵜呑みにせず、本気で喧嘩して突き返す姿勢」なんて珍説も出しましたが、結局おじさんたちが出した答えは、粋とはストロングスタイルであるという結論でした。
流行になびかず、やせ我慢を気取らず、自分の型を無骨に守り抜く。みなさんも、世間のあざといスマートさに流されそうになったら、自分なりのストロングスタイルを思い出してみてください。
TEXT:ユスカル
[https://www.wowrecords.jp/
『一度ハマると抜け出せない インド料理の歩き方』
https://amzn.asia/d/052AMid1
【当番組のwebサイトが開設されました!】
人生に「キク」ラジオ - 日暮里ゼミナール
https://nippori.lamm.tokyo/