こう考えてごらん。
意識は
ちょうど空のようなもので、
マインドは
雲のようなものだ。
雲は空に触れることがない。
雲は行き来するが
何の跡も残さない。
空は手つかずのままだ....。
何の記録も、
何の足跡も、
何の記憶も、
およそ雲に関わるものは
何も残らない。
雲は行き来するのみで、
空は乱されることがない。
これは
人の内側でも同じだ。
意識は乱されることがない。
思考は往来する....
マインドは展開しては消え去る。
また、
あなたのマインドは一つだけではない。
マインドはいくつもある。
まさに群集だ。
あなたの様々なマインドは、絶えず変わり続ける。
たとえば
あなたが共産主義者だったら、
あなたには特定の型のマインドがある。
でも
あなたはまたそれを去り、
反共産主義者になったりする
かくしてマインドは変わる。
たんに変わるなかりでなく、 正反対になる。
そのようにして
あなたは、
ちょうど着物のように
絶えずマインドを変えていく。
必ずしも
あなたはそれに気づいていない。
こうした雲は去来する。
晴 れ 渡 り が達成されるのは、
あなたが空に近づいたとき、
その焦点が変化したときだ。
空に焦点を合わせていないとき、
あなたは、雲に焦点を合わせている。
だから要は、
雲に焦点を合わせず、
空に焦点を合わせることだ。
この技法は言う。
夏、
空全体が
果てしなく晴れ渡っているとき、
その 晴 れ 渡 り の中に入る。
空に瞑想する....
雲ひとつなく、
無限にからっぽで晴れ渡った夏空に....、
それはまったく手つかずであり、
その中では何ひとつ動くものがない。
その空に思惟しゆいする。
その空に瞑想する。
その 晴 れ 渡 り の中に入る。
そしてその晴れ渡りに な る。
その宇宙的な晴れ渡りに な る。
雲ひとつない大空に瞑想すれば、
突然、
マインドが消え去っていくだろう....。
マインドが落ちていくだろう。
そこには隙間(ギャップ)がある。
突然あなたは気づくだろう.....、
それはまさに
晴れ渡った空が
自分の中に入ったかのようだ。
合間が現れる。
少しのあいだ思考は止む。
まるで交通が途絶え、
動くものが何もなくなったかのように。
最初のうち、
それは瞬間的なものだろう。
たとえ瞬間であっても、
変容をもたらしてくれる。
すこしずつ
マインドは減少し、
もっと大きな隙間が現れる。
何分ものあいだ、思考が雲が存在しなくなる。
思考が、雲が、存在しないとき。
外側の空と内側とは
ひ と つ になる。
思考こそが障壁だ.....。
思考こそが壁を作り出す。
思考があるからこそ、
外は外となり、
内は内となる。
思考がなくなれば、
外と内の間に境界はなくなり、
その二つは ひ と つ になる。
実際のところ、
かつて境界などけっして存在していなかった。
境界があるように見えるのは、
まさに思考のせい、
障壁のせいだ。
空に瞑想するのは素晴らしい。
寝ころんで現実を忘れる。
人気のない浜辺とか、どこでもいいから、
あおむけに寝ころんで、ただ空を見つめる。
空の晴れ渡っているときがいい。
雲ひとつなく、
果てしなく晴れ渡っているときが.....。
ただじっと見つめ
その 晴 れ 渡 り を感じる.....。
その雲のないことを、
その限りない広がりを、
そして
その晴れ渡りの中に入り、
それと ひ と つ になる。
まるで自分が
空になったかのように、
宇宙になったかのように、
最初のうち、もし大空だけに瞑想し、
ほかに何もしなければ、隙間が現れ始める。
つまりこうだ、
もしあなたが何かを見れば、その見る物すべては、
あなたの中に入って来る。
あなたの見る物すべては、
あなたの内側をかきまわす。
あなたの見る物すべては
画像となり反映される。
たとえば建物がそこにある。
あなたはそれを見る。
でもただ見るだけでは
終わらない....。
何かがたちまち内側に起こり始める。
あるいは、男なり、女なり、車なりを見る。
何を見たとしても、
それはたんに外にあるものではない。
何かが内側で起こっている.....。
その反映が起こっている。
あなたはもうそれに対して反応している。
だから見るものすべては、あなたを鋳型にはめ、
あなたを作り、あなたを変化させ、
あなたを創造する。
外側の物はたえず
内側の物に関連している。
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