「いや、自分はお金なんていらないんです。学びたいだけなんです。」
たまにこんな尊いセリフを耳にします。
言ってる本人は、清貧で高尚なつもりかもしれません。でも、それを聞かされたこちらとしては、つい「おぉ…尊いけど、そのまま朽ち果てるタイプのやつね」と心で合掌したくなります。
なぜって?
その理屈、構造的に破綻してるからです。
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学びは「金のかかる贅沢品」である
まず、冷静に考えてみましょう。
本も買う。講座も受ける。ネット環境は必要。時間も必要。移動も発生する。人との出会いも重要。
それら全部、**「お金」か「お金で買えるリソース(時間・健康・環境)」**が必要です。
つまり学びとは、生存に直接必要ないくせに、コストだけはやたら高いという、まるで“ワインのテイスティング”のような贅沢行為。
その贅沢を「金がないけどやりたい」と言われても、それはつまりこういうことです:
> 「財布も空っぽで、口の中にはソムリエ顔。できればシャトー・マルゴーでお願いします。」
…ってことです。
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「ライフワーク資金」を学びに突っ込む危険性
もちろん、生活費を削ってでも学びに投資する覚悟は尊い。だがそれが続くとどうなるか。
家賃が払えず、部屋を追い出される
飯が食えず、集中力が消える
疲れが溜まり、何もインプットできない
そして最終的にはこうなります:
> 「学びたいのに、思考力が残っていません」
いや、それ学びじゃなくて知的餓死です。
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皮肉な真実:「学ぶ」ためには「稼げ」
ここで多くの人が認めたくない、でも決して無視できない現実があります。
それは:
> 学ぶためには、まず稼げ。
本気で学びたいなら、その前に経済的余白をつくるべきなんです。
学びは後回しにするんじゃない。先に“学びを支える土台”を作るのが先という話です。
「いや、自分はライフワークレベルの最低限でいいんです」
という人もいますが、それってつまり、
**「その最低限でギリギリ回る生活費を、学びに転用しようとしてる」**ということ。
それ、もう破綻してます。計算式として。
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美談と破綻の境界線
「お金じゃない、学びだ」と言い切るのは、ある種の信仰のようなものです。
しかしそれは、美談としては素敵ですが、システムとしては機能しない。
お金がないと学べない
学んだことを活かすにもお金がいる
学びによって価値を出すにも、まず生活が安定している必要がある
これを無視して「お金じゃない」と叫ぶのは、
水なしで茶を点てようとするようなものです。
それはもう、精神世界の遊戯であって、現実の実践ではない。
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結論:金は尊い。学びも尊い。混同するな。
学びをしたいなら、まずそれを可能にする現実の足場=経済基盤を整えるべき。
それをせずに「学びたい」と言い続けるのは、誰かにそのコストを肩代わりしてもらうことを暗黙に期待しているという、やや甘えた構造になってしまいます。
逆に言えば、ちゃんと稼いで、余裕をもって学んでいる人のほうが圧倒的にストイックで、尊いんです。
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> 「お金がなくても学べる」という幻想は、自己破壊への入り口です。
「お金で学びの自由を買う」という視点に切り替えた人から、現実は開けていく。