こんにちは、マキです。
長いお休みを頂いておりました。
この収録は《死》というワードが絡みますので、体調のすぐれない方は視聴をご自身で調節なさってください。
特に詳しい内容は入っておりませんが、無理だと思った時は、静かに閉じてくださいね。
5月、私は弟を亡くしました。
正確には、亡くなっていたことを知りました。
弟を亡くした悲嘆反応がすごくて、それと向き合うのに必死でした。
金銭的な負担も大きくて、体も心も厳しい状態が続いていました。
ずっと自我の動きを観察し、感情を解放し、ありのままあるがまま流れに身を任せていました。
心と身体が追いつかず、しばらくは時間の感覚もありませんでした。
今がいったいいつなのかが、1日のうちに何度も分からなくなってしまったり、気がつくと夜になっていたりしました。
今はずいぶんと元気になりましたが、できるだけ心を自由にさせております。
自分が漂いたいように漂っていくだけ。
ありのまま、あるがままでしかない世界なので、今ここをただ生きていれば充分なのではないかと思っています。
ブログやスタエフでも発信してきましたが、
私と弟は機能不全家庭に育ち、弟もまたアダルトチルドレンであり、私とは違った生きづらさを抱えていた、と今更ながらですが、考えればすぐに分かることでした。
私と弟は、私の結婚により生活を別々にしました。今から約12年前のことです。
私より冷静で穏やかで割と楽観的だった弟は、自身は結婚を選択せず、これからの人生は自分のためだけに自由に生きていきたい、と言いました。
今までの私たち姉弟の苦労の多い人生を思うと、どんな形であれ、弟には自分の人生を自分らしく生きていってほしい、幸せでいてほしい、ただそれだけでした。
この世界はもっとも美しく、もっとも残酷な世界であると思います。二元の世界の振り子の中で生きる以上、善と悪、優劣、上下、生と死など対極があります。
その世界に生きるからこそ、さまざまな色とりどりの感情にも出会います。
幸福を知るからこそ対極の不幸が生まれ、苦しみを知るからこそ光を感じることができたりもします。
しかし、それらはただ流れている川の流れのようなもので、そこに意味はありません。
すべては無色透明であり、それらに意味をもたせるのは私たち人間なんです。
多くの方は《分離》をネガティブなものに捉えようとしますが、
そもそも《分離》がなければ、認識することはできないのです。
分離があるからこそ、体験することができている、そんな世界に私たちは生きています。
そして、私たちは意識によってこの世界を自分の好きなように切り取って解釈しています。
これらは心理療法や脳科学や認知科学などの分野ですでに明らかになっていることばかりです。
したがって、私の世界(宇宙)は、私が切り取ったもので構築されているんです。
なので、どう切り取るか?
言い換えれば、
《何に意識を向けて生きるか》
《どう捉えるか》
それが全てであり、その人における真実なんです。
今改めてこの世界を見渡しても、《私》こそが世界そのものだった、と
どこまで行ってもそんな思いに、やはりたどり着いてしまいます。
私の弟は自死でした。
弟の命がある日ぽつんと消えたとて、街も人も、誰も何も変わらなかった。
家族であった私自身すらも、弟の死をずいぶんと後で知ったことに動揺し、耐えがたい痛みに打ちひしがれ、受けとめられない日々が続きました。
弟の最後の姿が脳裏に焼き付き、気が狂うほどの衝撃波を1秒ごとに全身で受け続けている、そんな状態でした。
しかし私は、幸いこの三次元意識世界の一層だけで生きておらず、そのため、本質の光に守られていました。
本質の光だけが、どんな私をも静かに包み込み、理解し、癒し続けてくれました。
この三次元世界が厳しければ厳しいほど、苦しければ苦しいほど、私の目の前に広がる世界は鮮やかに輝きを増し、光り、躍動して見えました。
それは《いのち》そのものでした。
それらは限りなく尊く、美しく、全てにおいてゆるされていました。
今は《愛》と《慈悲》の波動の中で生きています。
うまく生きられなかった弟の選択をゆるします。
私の中で荒れ狂う後悔や消えることのない深い悲しみをゆるします。
耐え難い痛みとともにこれからも生きていくことをゆるします。
あらゆるすべてをゆるし、
ありのままあるがまま、ただ生きていこうと思いました。
私たちが無限の中の1、1の中の無限であるならば、
この世を生きている《小さな私》の、誰も知らない物語からも、何かお役に立てることがあるのではないかと、ずっと思ってきました。
私のこの世の体験と学びを、これからもありのままあるがまま発信していきたいと思っています。
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それをゆるしていないのは、あなた自身です。
すべては最初から《愛》と《ゆるし》の中にあります。