素人による仮説なので、あしからずです^_^
ちなみに
わたくしの 新説12因縁では
かんたんに対応させるために
無明を二つの意味でとらえています
ひとつは
空想された状態を無明
もうひとつは
空想された状態に催眠をかける作用
のことです
後者により
主体という信念(強想念)がおきるので
後者の無明(催眠)作用のことを
つまり強想念についてですが、それがあるのでもないのでもない段階である非想非非想処
のことだとしています
そして
無明作用(非想非非想処)
のあと
行(無所有処)
識(識無辺処)
名色(魂とアカシックレコードの場としての空無辺処)
となります
「ブッダの非我説の真実について」
中村元さんの、
ブッダの伝記についての本には
アートマン(不滅の根本存在)は否定されていないというふうに説明されています
中村元さんによれば
ブッダはアートマンは存在しないとはいっていない
これやあれはアートマンではない
と
述べているだけである
とかいておられます
つまりそれは煩悩によっつて見失っていただけで常に存在するということなのでしょう
客体的実体としてのアートマンを認めるのではなく
アートマンは存在しないというのでもなく
アートマンについては「沈黙」していた
ということです
なぜなら
アートマンは主体(マインド)の対象にはならないからです
これは
マインド(自我)がつかむ有無論の罠におちいらないためでもあります
無明からの自我(煩悩)は自らの
存立について疑っており
アートマンは存在する しない
を
客体としてつかもうとするのです
中村元さんは本で、
人々が
対象として把握しようと
するいかなる形而上学的なものも、
アートマンではないとかかれています
(いわんや形而下のものはいうまでもないことなのです 無常であるもの苦でありアートマンではない)
中村元さんは、ブッダの教えは形而上学的なものも含め、具体的に把握されうるすべてのものに対する、人々の執着を取り除くためのものであると説明されています
中村元さんの本の説明によれば
原始仏教は
こういった非我についての教えについてです
ただし
原始仏教の末期に
無我論(アートマンが存在しない)
が
あらわれだしたと説明されています
これはパーリ経典のなかにはみられず、
サンスクリット経典にあらわれだして
無我論が発生したと説明しています
(付記)
教えや癒しがおこることについて
教えみたいなのは
実在からの恩寵です
その教えを聞く機会があれば
実在(ただ在る)ことがおこる
(比喩で、ほんとうは おこるようにみえることから影響をうけなくなる)
ことによる平安がもたらされる
のだとおもいます
それ、つまりは、実在による平安というのは
二元的経験ではないため(自我目的達成ではないので、そのような活動的経験の記憶がおきてくるのではなく、つまり蓄積するのではなく
たんに一元(ただ在る)によるいやしがなされてくる
という感じだどおもいます
たとえば仏陀の教えの場合
縁起は世俗諦の教えで
無明の状態における縁起の説明がされていますが
それらは空(実在)しない
といわれています
勝義諦は
ニルヴァーナだけが実在する
という教えです
仏陀は法をも捨てよ、いわんや非法はいうまでもない
て説かれています
非法とは無知であり
法とは
世俗諦(縁起)
と
勝義諦(月をさす指、つまりこれも概念)
です
つまり、無知による経験
に執着しないというだけでなく
経験の説明(世俗諦 縁起)
や
実在についての概念(ニルヴァーナとか神とか)というものにも執着はしないように
ということなのだとおもいます
^_^
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