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奇跡講座(ACIM)を語る

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(配信への付記) ACIMからノンデュアリティオートマチックへの経緯説明 ナチュラルノンデュアリティ・オートマチック仮説とは 実在が 空想された個に催眠をかけた という 説明が掲載されているのは 「神の使者」(ゲイリーレナード著 河出書房新社) の 存在の秘密という章にある 169ページの 神に創造されたキリストの 「もしわたしが出ていって、自分勝手にするとしたら、どうなるかしら?」 という無邪気な思い という説明である これがすなわち 神に創造された実在であるキリストが 空想された個に主体化催眠をかける という宣言である したがって 神とともにあり、神とひとつである実在レベルのキリスト の催眠の責任をあらわしている 明らかな文章なのである そして主体化催眠がおきて 空想された個は マインド(大自我)となり、その自我の枠のなかにのみ客体意識をもつことになる キリストによる、 分離という小さな狂気の空想 のあとの 心の最初の分裂である(主体そして、主体の枠内にのみ作った客体意識)である こうして マインドは 天国(実在)を思いだせなくなったとある これがキリストがなした主体化催眠である そのあと 神から分離したという解離催眠がおきる と説明されているが ナチュラルノンデュアリティ仮説では 主体化催眠イコール解離催眠である とすべきである とのべる さらにアコースインミラクルズ(ACIM)についての解説をしているこの本では おかしな形而上の説明がある そもそも 実在は不可分であるにもかかわらず、 神が創造主であり、キリストは被造物である とのべられており、それらはひとつの実在である という 矛盾した 説明がなされている しかも、 その実在のキリストに、キリストのほんの小さな側面において、一瞬 神と分かちあえない考え、つまりは神から分離して自分勝手にしたらどうだろう?という考え が現れたかのようにみえる。 と説明される。 実在に神とキリストという区分があるのは、おかしい、のであり、 そしてまた、小さな狂気の空想をキリストのせいにしているのは、 神とキリストに差別を作っていることは明らかである そして キリストがなした 主体化催眠 は キリストのせいにされる このようなおかしな形而上の説明は 次のように 訂正することができる 実在(存在 いのち)はひとつである 実在自体は、永遠に存在するため、 創造、被造物は存在しない 実在(永遠の存在 静寂)には、ワクワクという性質もある でなければ、変化する現象世界がおきているようにみえることすら、ありえないが、そうではないからである 実在は もし空想された個があり、自分勝手にしたらどうなるかしら?と考えた これが 空想された個 そして、実在がそれに主体化(自律化催眠) をかけた ということである これがすなわち 想念は源から離れないという空想から 自律してしまったかのようになる 解離である それまでは、主体はなく客体意識もなかったのであり 主体化催眠の状態は 実在そのものを忘れてしまった それを解除する(癒す)のは すでに在る、無条件、無努力の実在(神) である マインド(私)の努力によって到達できる悟りではありえない これが ナチュラルノンデュアリティ・オートマチックという 仮説を提示することになった経緯です。 (そのほかの配信付記) 静寂と愛は両立しない なぜなら 愛は活動を暗示するから そして活動とは幻である 静寂はただ存在する ノンデュアリティに関する 本やYouTubeを聞いていると 在ることは愛であるとか 説いているが それはマインドが説いているにちがいない 奇跡講座でさえ マインドが学ぶものであるから 聖霊を対象であるかのようにとらえることになる そとに想定したものに明け渡そうとするなら それは活動性をまぬがれない したがって マインド以前の聖霊(静寂)は マインドによって博なる愛執におちいるのである それは真の自己を忘れ そとに真理を想定している したがって、 その実現は 自分または自分ではない他者に奉仕することの 堂々めぐりとなろう なぜなら その正体は マインドがそとにとらえている偽である概念の聖霊だからである したがって 幻想の活動性からはのがれられない では奇跡講座のそのあやまりはどこからきたのか それは 神(無限)が同一であるキリストを創造するという幻想の活動(ありえない矛盾) を信じこんでいるからでいる そのあとに そのキリストとやらに もし個があったとしたらという妄想がつづくこととなる そしてさらに主体化催眠がおきる このような妄想は 破邪顕正 により催眠解除される 神の正気(神の試みの終焉)の真の福音が おきたからなのである これが 因縁の終焉であり、真の慈悲のメッセージ(愛ではない)である #ノンデュアリティ #非二元 #ナチュラルノンデュアリティ #スピリチュアル #ACIM #アコースインミラクルズ
2025年3月4日
コメント(5)
N A C
奇跡講座ACIMの形而上学と わたくしNACのナチュラルノンデュアリティオートマチックの形而上学 のちがい は わたくしの形而上学では 主体化、解離、という信念(催眠) という あたかも二重にみえる催眠(ほんとうはひとつで同じものです) を 奇跡講座の場合は 2回目の解離催眠だけをエゴとしている というちがいがあります しかしながら 奇跡講座の関連本である、神の使者、という本では 最初の主体化催眠について述べられており 天国を忘れ、 対象として意識をもつようになる と 催眠についてかかれています 原初からの無邪気な空想(空想された個) の場合には まだ空想されている個のため その個には、主体化や、その催眠による対象意識はまだないのです したがって 神の使者では 二重の催眠として 決断する主体催眠(聖霊か自我を選択) そして 決断したあとの 解離催眠(エゴ) としてかかれています しかし ノンデュアリティオートマチック と 奇跡講座 のちがいは すでにのべたように 決断する主体(主体化の状態) は すでに天国を忘れている 状態として 主体化解離催眠として 扱うのです そして 主体化(解離)催眠というものは ナチュラルスピリットがなしたことであり それを癒すのも ナチュラルスピリット なのです したがって ひとつの命からの 全自動 という真実のメッセージなのです
2025年5月4日
N A C
奇跡講座 小冊子 思考の逆転 についての わたくしの感想 https://ameblo.jp/726548/entry-12894308277.html
2025年4月17日
N A C
奇跡講座ACIMからノンデュアリティオートマチックへ (再整理) 奇跡講座のおかしな説明の整理しました 神とキリストを区別する説明 (マインドを作ったのは、キリストだけのせい) 空想された個に 主体化催眠をかけたのはナチュラルスピリット であることを説明しない(全自動) 決断する主体化催眠イコールすでに解離催眠(自我) であるということをごまかしている 解離された自我 (前の状況を忘却はしている自我)に ナチュラルスピリットである神へ の罪と恐れを抱いてると意味矛盾する説明をすること である また、 整理点に、次のことを加えておきます 聖霊(神の記憶)は 選択する 対象ではありません 主体以前のノーマインドの記憶ですから それは 静寂が、対象ではないのと同じです 静かになろう なろう は(主体による選択) マインド活動にすぎません 自然さは 主体化催眠による選択ではむりで ノーマインド(ナチュラルスピリット) からの癒しによるものです 全自動 したがって ノンデュアリティオートマチック が明らかになります。
2025年4月16日
N A C
奇跡講座のおかしな説明についての感想 また、別の説明では次のように考えることができるかもしれません。 形而上の解離によって、 神や聖霊を忘却しているという 自我は その神に対し恐怖したり、怒りの神として対象化して捏造したりするのは 説明として矛盾していることになります。 では、 いったい誰が罪悪感うんぬんといっているのでしょう。形而上の自我でも、また聖霊でももちろんありませんよね。 それを誤解してしまっているのは形而上の決断する主体のレベル でということになります。 そこに誤解があります。 したがって、 「私は神から分離しており、怒りの神を想定して困っています」 という奇跡講座の形而上の自我の力動のこの部分は、どこにないことになるのです。  解離して忘却してしまっている大自我は 不自然な状態です。 自らを好奇心と苦しみの存在として感じています。 そして 日常生活の私たちは 、その誤創造主である形而上の大自我を ワクワクの特別の愛と苦しみ(憎しみそして怒り) の創造主として信仰するのです。 しかし その私たちの恐れというのは 奇跡講座の形而上の解離前の神(ナチュラルスピリット)にたいするものなどではなく、 形而上の大自我自身との同調 というほうが正確な説明であるといえるのではないですか? 神(ナチュラルスピリット)への罪という発想というのは、飛躍しており矛盾した説明であるといえます。なぜならば、 この世界の宗教のその神は ナチュラルスピリットではなくて形而上の大自我のはずだからです。 したがって、  形而上の大自我が抱くのは 自らの特別性の好奇心と苦しみ、憎しみ、怒り であり じつは 神への恐れ、については ただひとつであり みずからは存在しないのでは  ということだけなのです(さいごの神への平安の障害といわれている) わたくしがいいたいのは、 解離させられている自我
2025年4月16日
N A C
つづき 解離させられている自我(しかも忘却)のほうが 罪悪感を抱いていますというおかしな説明 はあまりにも おかしいということです。 決断している主体がいるのですから、責任を感じているのは決断する主体のはずですからね。 そして、決断する主体は、たんなる選択の存在ですから、罪悪感を抱くほど深刻ではないはずなのです。 したがって、 自我が神 (ナチュラルスピリット)に罪悪感を抱いてます という飛躍してしまった説明はおかしいのであり スピリチュアルの探求者におかしな妙な誤解(恐れ)を与えることになるのです。 これがわたくしの感想ですね。
2025年4月16日
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