(配信への付記)
静寂と愛は両立しない
なぜなら
愛は活動を暗示するから
そして活動とは幻である
静寂はただ存在する
ノンデュアリティに関する
本やYouTubeを聞いていると
在ることは愛であるとか
説いているが
それはマインドが説いているにちがいない
奇跡講座でさえ
マインドが学ぶものであるから
聖霊を対象であるかのようにとらえることになる
そとに想定したものに明け渡そうとするなら
それは活動性をまぬがれない
したがって
マインド以前の聖霊(静寂)は
マインドによって博なる愛執におちいるのである
それは真の自己を忘れ
そとに真理を想定している
したがって、
その実現は
自分または自分ではない他者に奉仕することの
堂々めぐりとなろう
なぜなら
その正体は
マインドがそとにとらえている偽である概念の聖霊だからである
したがって
幻想の活動性からはのがれられない
では奇跡講座のそのあやまりはどこからきたのか
それは
神(無限)が同一であるキリストを創造するという幻想の活動(ありえない矛盾)
を信じこんでいるからでいる
そのあとに
そのキリストとやらに
もし個があったとしたらという妄想がつづくこととなる
そしてさらに主体化催眠がおきる
このような妄想は
破邪顕正
により催眠解除される
神の正気(神の試みの終焉)の真の福音が
おきたからなのである
これが
因縁の終焉であり、真の慈悲のメッセージ(愛ではない)である
(補足)
罪悪感はじつはどこにも実在しない
奇跡講座に関する疑問を一つ、提示してみます(仮説)
奇跡講座では、神からの解離を自我と呼んでいます。しかし、解離した場合、神のことは覚えていないのではないでしょうか。にもかかわらず、「自分は神から離れていて罪悪感を抱いています」とのべるなら、神のことを覚えており離れたわけでない、ということになってしまいます。
自我を解離存在とするなら、自我が神からの分離という罪悪感を抱いているというのは、おかしな理解となります。たしかに自我は不自然な信念で苦しみとはなりますが、自我は「神について罪悪感は抱いていない」はずです。そして、自我以前は、神からの分離を現実とは信じていないはずですから、自我以前にも罪悪感は存在していません。
したがって形而上において、奇跡講座の形而上学において、そこに神をしらない解離した自我に、神にたいして罪悪感や恐怖があるという発想は、じつはありえないことになるのではないでしょうか。
こう整理してみると、
じつは罪悪感は実在せず、
どこにもないということがわかるのです
もし、自我は解離していても、神から離れたと、覚えている部分があるなら、そのおぼえている部分は、上記のように、神から離れていないということを覚えている部分のはずであり、
やはり罪悪感は、どこにも実在していないことになるのです。
そして
マインドはナチュラルスピリットが空想したものであり、
それをただ癒すのも
ナチュラルスピリットなのです
(これがナチュラルノンデュアリティオートマチックです)
(付記)
静寂とは対象ではない
静寂は感じようとする以前の状態
同様に聖霊も対象ではない
聖霊を選択肢と
考えて練習しているとき
奇跡講座を学んでいる状態のとき
そこには以前としてマインドの状態がある
そこにはまだマインド(主体化)が絡んでくるため
静寂は
べつのものになるかのようになる
それが愛とよばれる
静寂が活動以前のままあるとき
それは
ナチュラルといわれる
主体化(マインド)が
解離を信じるとき
静寂は
特別の愛そして憎悪となるのだ
したがって、奇跡講座の学習者は
ゆるしと愛を説く
しかし
わたくしは
奇跡講座をやめたので
静寂(ナチュラル)を説く
これが真のマインドの無効化なのである
以上
ナチュラルノンデュアリティのメッセージでした。
(付記)
奇跡講座の正体
もっといえば
正確には
じつは主体化催眠イコール解離催眠だといえます
その自分という特別の愛と憎悪
(わたしは誰か)
は
対象に
聖霊をつくります
しかし
自分は聖霊にゆだねきることはできません
なぜなら
その聖霊はじつは自分がつくった概念だからです
したがって
そこには
特別な愛と恐れ
がまだあります
それにゆだねるきることなどできないでしょう
なぜなら
真の聖霊は
主体が選択する概念ではありえないからです
真のナチュラルスピリットの記憶は
主体や選択以前にあるのです
したがって
奇跡講座の決断するレベルの正体というのは
マインドの産物なのです
ナチュラル 静寂は
もっとシンプルなものです
それは
無条件 無努力です
それは奇跡講座のゆるしを選択することによって
到達する
というものではなかったのです
(付記)
奇跡講座とノンデュアリティオートマチックのちがい
ちなみに
存在(ナチュラルスピリット ゴッドイズ)
主体化の催眠(源からはなれていない無邪気な空想された個を、わたし、というマインドにするさいしょの催眠)
意識催眠(第1分裂。
意識が主体となる これがコースの決断する主体というレベルである)
意識は聖霊(あるがままの記憶)
自我(分離を信じる)
をもつ
(第2分裂)
自我催眠(第3分裂 自我が主体)
宇宙の中の身体が主体(第4分裂)
という4段階の忘却(神の使者の本の説明による)
のうち、
さいしょの主体化の催眠を
正確な意味での解離の催眠とみなし
すべてノンデュアリティオートマチック(全自動)
であるということにしてます
わたし(主体 マインド)をつくったのは
わたしではないので
わたしをいやすのもまた
わたしではない
全自動
ナチュラルノンデュアリティオートマチックです。
#ノンデュアリティ