1.意識の持ち方
『目覚めているとき』と『目覚めていないとき』のちがい
「イクストランへの旅」より
ある日、食事をしながらカスタネダは、"目覚めているときのこと(比喩)“について質問した。
カスタネダ(カ):「いまこうしていることを、 なんて言う?」
ドン・ファン(ド):「食う、というな」と笑いをこらえた。
カ:「ぼくは現実と呼ぶよ。だって食事は現に起きつつあるんだもの」
ド:「夢だってそうさ」「狩だって、歩くことだって、笑うことだってそうさ」とクスクス笑う
【ここからわかること】
・カスタネダは目覚めている時とそうではない状態との間に大きな区別を設けていたが、ドン・ファンは目覚めている時とそうでない状態とを本質的に区別していない。
・realityという名詞・reallyという副詞の問題が二人の間に横たわっている
2.知覚・感覚のあいまいさ
【エピソード】
ドン・ファンはカスタネダをつれて西シェラ・マドレ山脈のふもとにやってくる。そこでカスタネダをあおむけにさせて、灌木から葉を一枚ずつ取り、それをヘソのあたりに置くようにと言う。そして、葉からくる暖かさにだけ注意をむけているように命じた。しばらくじっとしていたが、やがて葉から発散される暖かみを感じはじめた。まず最初は手のひらに感じ、それから腹部にまで拡がり、最後にはからだ全体に浸透していった。数分のうちに、両足がカッカしてきた。高熱をだした時の感じを思わせるものだった。
・外界の事実と、それによって呼び起こされる情緒とのシーソー、これは歪みが生じたりすると一挙に〈病理的〉状態へと陥る。
・外的世界と内的世界とのあいだで恒常的な思考の交換作用が起きている
・「外界の事実と、その事実によってたまたま呼び起こされる情緒との間には合理的に推論できる関係などありはしない」(ウィリアム・ジェイムズ)
→ ドンファン曰く「呪術師が言うように、 わしらは泡の中にいる。 わしらは生まれた瞬間にその泡の中に入れられるのだ。最初、その泡は開いているが、それはしだいに閉じはじめ、最後にはわしらを閉じこめてしまう。その泡がわしらの知覚なのだ。わしらは生涯その泡の中で暮らす。そして、その丸い壁に見えるのは自分自身の映像なのだ。
はじめは泡は開いている。幼児にとって、小さな木の破片は、同時に動物であり、乗りものであり、あらゆるもなのである。ところが、われわれは年をとるとともに、そうした可能性を一つずつ失っていかざるを得ないのだ。」
3.精神と体の関係
『イクストランヘの旅』より
カ「わたしの恐怖心は、思考とは関係のないからだの感覚のように思えた。それまでのわたしの恐怖心というのは、 いつでも知的な基盤の上に現われ、社会的状況を脅かすとか、誰かがわたしに危険なことをするとかいうことで生まれるものだったのだ。
しかし、今度の(シャーマンの修行による)恐怖心というのはまったく新しい体験であった。それは未知の世界からやってきてわたし自身の未知の部分を突いたのだ。」
精神と体の関係は…
・精神に関わる出来事のほとんどを身体の出来事によって表現する
・ある種の精神の状態が身体的変化に基づいている
・身体の状況を整えることによって精神を調整する方法を示している
4.カスタネダとドン・ファンのやりとりと、日本文化との共通点
・禅問答的応答による意識の持ち方…弟子が言葉や論理に頼ろうとすると、師はただちにそれを矛盾に陥れ、弟子を身のまわりの具体的なリアリティヘと戻そうとする
・精神の状態が身体変化と繋がっていること…日本では「術」や「道」として現れる
【参考文献】
植島(1981)カスタネダと宗教学,関西大学学術リポジトリ31(2)11
【ベストコメント】
・逆に自分にしか見えたなさそうなものがあったら、誰かに伝えたいと思いそうです。
・どやむあ
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