奇跡講座ACIMの解明(卒業)
唯一のナチュラルな実在は、その外側に真なるものがあると、主張することはない
(内側についても同じである)
では、外側に真なるものがあると主張するのはだれなのか
それは
我である
実在が
実在の外側に真なるものがあると主張しているのではなく
我が我の外側に真なるものがあると主張するのである
それら主体と客体は
ともにナチュラル(無条件、無努力)ではない
主体や客体という想定努力以前の
ナチュラルが、唯一の実在であり、存在意識、ただの意識である
同様に
神と分離していない実在であるキリストにおいて、自分勝手にしたらどうなるだろうと、
無邪気な小さな狂気の考えが湧いた
その想像が、マインドである
その想像には2つの意味がある
個という空想された状態と、その個が自分勝手にできるという主体化という状態である
キリストはこの2つの意味をもつ状態を空想したのであった
そして、キリストが想像している個の主体化
においては、主体における客体意識も当然自動的におきるだろう。
したがってここまで(主体という空想)、明らかにキリストの責任だといえるのである
しかし、キリストがしている空想である主体にもかかわらず、
すでにその主体はキリストを忘れているという
そして、主体、そして客体意識しかわからなくなっている(最初の分裂)という
これはあきらかに
空想されている、ではなく分離(主体化)というエゴがすでにおきている。
つまり催眠の状態である
だれがそういうこと(催眠)をしたのか、
それは実在である神と分離していないキリストしかありえない。
したがって奇跡講座ACIMについて書かれているゲイリーレナードさんの本「神の使者」における、最初の分裂状態、主体化と客体意識
そして
それにつづく自動的な第二の分裂(客体意識の中に神と分離していないキリストの記憶、か、自我か)
ここまで、神と分離していないキリストから自動的に空想、催眠としておきたことなので、
神から分離していないキリストの責任であると明らかにいえるだろう。
そして、この決断とは何か
神から分離していないキリストが実在であると信じるか
主体化催眠をさらに信じるか
の決断である
しかし、決断する主体まで、キリストの影響によっておきた存在なのだから、
当然、その主体が何を決断するかも
キリストの影響でしかないだろう。当然である。
したがって
どちらを信じるかも
キリストの影響であることが明らかとなった。
すなわち
主体化は幻であるとキリストが癒すのか
主体化という催眠をさらに現実だと思い込みつづけるのか
(エゴの強化)
は
神と分離していないキリストの影響が100%であるということだ。
そして
エゴへ決断したとき
そのさらなるエゴも
客体意識(外側)という、ワクワク、苦しみ、自己憎悪の場をさらに置くことになる
そして、エゴのその客体意識はまたさらに主体化しそれが偽りの神となる
つまり、大自我の代理(ワクワクと)怒りの神なのである
これが奇跡講座のいう、怒り(とワクワクでもある)の神の正体であり、
エゴの代理であるそのあらたな神(エゴの客体意識が主体化されたもの)は
さらに客体意識をもつのであるが、その客体意識の中に虚空(アカシャ)の場をつくり
虚空(アカシャ)には多次元のボディや多次元の環境というシナリオがつくられ
それらのシナリオを鑑賞する魂たちも神の客体意識に同じく作られたのである
(奇跡講座のいう癒しのための2回目の旅であるシナリオつまり訂正されたシナリオは、
キリストである記憶という聖霊によって訂正してかかれているものであり、この旅は、エゴのシナリオを癒して終焉してしまうことができるのである)
このように、じつはすべてが
神から分離していないキリスト
からの100パーセントの影響(オートマチック)だったのである。ただし、一回目のシナリオは聖霊が監修したわけではない。閉鎖催眠状態の大自我が監修していたのである。
そして奇跡講座(概念)の卒業とは
もはや概念(記憶)ではない
真の聖霊(神と分離していないキリストの真の癒し)の影響によって
すべての主体化という催眠以前からくる
神と分離していないキリスト(神意識、キリスト意識、存在意識)からのオートマチックな催眠解除のことなのである
これが真の
自然(ナチュラル)のなかのオートマチックの終焉
つまりは
ナチュラルノンデュアリティオートマチックの終焉
である
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