🟣物語の手前で、声は文脈を織りはじめる(38:34)260901 久しぶりに朝のMy Car Studioからなりっちの声でお届け
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🟣今、no+eに書いている、叙事と抒情の狭間を揺れながら怖くて苦手な小説に沼落ちしてきた私 の話について語っています。(な)
🔵物語の手前で、声は文脈を織りはじめる
久しぶりに、朝のマイカースタジオに座っている。ゴミを出し、新聞を取り、車に戻る。かつてはよく通った朝の順路である。九月に入った東京の空気は、ほんの少しだけ夏の熱気をゆるめていた。発声練習をしてから、私は声を録り始める。
いま、私は長い文章を書いている。ブログではない。検索をし、リンクを貼り、公開後にも書き足していく、あの書き方とは少し違う。創作叙事詩とも、オートエスノグラフィーとも、エッセイとも、小説とも、まだ言い切れない。章も節もつくらず、題も定めず、思い出したことをただ書き連ねている。過去へ遡ったかと思えば、急に現在へ戻る。すでに二万字ほどになった。
きっかけは、丸谷才一『笹まくら』だった。この夏、私はその小説に深く惹かれた。けれども私は、本来、小説が怖くて苦手な人間である。
小学校低学年のころ、病気で学校を休んだ日に、母が『不思議の国のアリス』を借りてきてくれた。熱のある寝床で読んでいるうちに、部屋にいる自分と、うさぎを追って穴へ落ちていくアリスとの境目が曖昧になった。物語の世界が私を楽しませる前に、現実の足もとを揺らした。その怖さが、長く残った。
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> だから私は、小説へ直接には入れない。映画を見たこと、誰かの話を聞いたこと、作者や時代を少し知ったこと。そんな遠回りの末に、ようやく本を手に取る。高校時代に友人たちが勧めたサリンジャーにも、すぐには近づかなかった。いまになって映画をきっかけに、その周辺を歩いている。
この遠回りを、私は「文脈」と呼びたい。文脈とは、一つの言葉や作品の前後にある事情だけではない。記憶、身体、偶然見た映像、誰かの声、過去に書いた文章が、ともに織り合わされることでもある。小説に出会うことも、書くことも、ただ一人では始まらない。
私は小説を苦手としてきたが、書くことは嫌いではなかった。詩を書き、論文を書き、社会科教師として授業プリントを書いた。ウェブサイトやブログでは、創作叙事詩やオートエスノグラフィーを書いてきた。紙媒体へ寄せたエッセイでは、リンクも注もない文章のなかで、文脈そのものを読んでもらう経験もした。
ラジオは、さらに別の文脈を私にくれた。教室では相手の顔が見える。しかしラジオでは、誰が聴いているのかわからない。リクエストや便りが届いて、初めて、遠くにいる誰かの存在に出会う。多世代、多職種、無職を含む人びとと、声を通じて番組をつくってきた。
かつて小説を書こうとして、習作を重ねたこともある。けれども途中で手放した。そのとき、「叙事と叙情が入り混じる文体だもんね」と言われた。出来事を記すことと、そこに揺れる感情を書くこと。その混じり合いが、自分の書き方なのかもしれない。
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> いま書いているのは、小説ではない。小説を怖がりながら、時にその世界へ沈んでしまう私の来歴である。『アリス』の穴から、『笹まくら』の沼へ。過去と現在を往復しながら、私は物語の手前で、声と文章の文脈を織りはじめている。
(perplexity 260901生成)
【画像】珍しく複数の生成AIさんに上記の「エッセイー風の文章」イメージの生成をお願いして見ました。
これは、ChatGPT Image260901です。