一人称を「俺」から「私」に変えてみた——そんな小さな自己紹介の揺らぎから、今夜のドライブは出発します。「僕」「自分」「オラ」、そして個人事業主として名乗る「園主」。呼び名が増えるのは、自分を見せる相手が増えたからかもしれません。
話は山の暮らしへ。部会や組合の外で花を直接売り、Instagramで発信する「浮いた存在」でありながら、軽トラが山に突き刺されば近所に頭を下げる。助け合いは、互いに相手を見捨てられなくなる仕組み。それは意外にも、お金のやり取りとよく似ていて、どこか東京的な心地よさがある——。即席の「地域論」講義が開講されます。
そして本題は「死」。死体は見えても、死そのものは誰も観測できない。『攻殻機動隊』の素子は、バトーたち他者に観測されることで存在できたのではないか。死は科学より文学の領域にあるのかもしれません。畑に名も知らぬ先人が建てた「愛農観音」を、毎年草刈りして守る園主。会ったこともない安原義次さんは、その影響の中でまだ生きている。花とは、「誰かに渡したい」という認知のバグを生む道具なのではないか。生きていること自体がアートだ、という宮沢賢治的な結論へと流れ着きます。
最後は、ナチュラル系の「美しい生き方」がマーケティングに使われることへの違和感から、丹羽くんの美意識へ。モネを見て、説明より先に「好きだ」と感じる反応。うんこの匂いだって、好きなら好きでいい。フィルターを外した自分の反応を認めること。それを聞いて、否定したはずの誰かを、少しだけ受け入れられる気がした夜でした。
今回の問い
死が観測できないのだとしたら、あなたは誰の中で、どんなふうに「生き続けて」いますか?
それでは、おやすみなさい。また次の深夜に。