「空の世界 龍樹から親鸞へ」(山口益著 大法輪閣)第一章あたりの読書感想
(付記 南伝パーリ原始仏教の原典を読んだときの感想もかいておきます)
仏教の問題点の整理
仏教では世間は
色受想行識の仮和合であり、我はない
ではその五蘊はどこからきたのか、あとはニルヴァーナからしかない
もしニルヴァーナからきたなら、ニルヴァーナ(静寂)もそういう性質であることになる
しかし性質はちがうとすればニルヴァーナのほかに変化を好む性質が実在にもあったことになる
そのサブ性質も実在になければ、一切なにもおこらないはずだから
その実在におけるサブ性質であるものを仮にワクワクとよぶ
しかし、この世界は悲惨な戦争がある
となれば
ワクワクから五蘊(つまりこの世界)がおきる
あいだに何かのおかしなプロセス(試し、実験)があったことになる
それが、主体化解離催眠というつくられた個のマインド化(主体化 カルマの主)
がなくてはならない。
でなければ、実在におけるワクワク自体が戦争好きということになる、そのような愚かさを実在におしつけるのはおかしい。
したがって、
試み(実験)により、主体化がおき
それによって五蘊がおきつづけているのである(仏教はこのことを説明できていない)
主体化のマインドこそ
実在のワクワクからの真の漏(煩悩)そして空想された個の主体化催眠が真の無明であり
それゆえ、ニルヴァーナ(ただ在るという実在のメインの性質)からの恩寵により
ワクワクからの漏の活動の停止がおこらなくてはならない。これが癒しそして解脱のことである。
仏教は無明は無始であるというが、
無始とは
時空においてはということにすぎない
(アビダルマでは12因縁の無明、行、はたんに過去世のことをあらわしているからであるという。識から有(業)までは現世、あとの生、老死は未来世をあらわす)
そうでなければ、仏教はサーンキア哲学とおなじく、二元論になってしまう
仏教はまず欲界からでるために
小さな我(魂)を否定する
そのあと
有為つまり五蘊じたいもなくそうとする
この有為は主体化解離催眠の大自我から生じたものである
したがって真の無明は催眠大自我である
そして
すでに常在であるニルヴァーナ(静寂)のために
努力することは意味矛盾している
(仏教の矛盾)
なぜなら、努力はニルヴァーナ(静寂)とは矛盾するからである
また、五蘊の識は五蘊においては刹那滅の識別のことらしいが、これとはべつに
努力でする無色界禅定である識無辺処(時空以前の客体意識)という瞑想
というものがある
しかしこれも努力のため
解脱(ニルヴァーナ 寂静)ではないことはいうまでもない。
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