広島が中心になる前、この土地は振り回される側だった
前回、広島市域の歴史の第2回を話したら、どうも反応が薄かった。
最初の回のほうがよほど良かったくらいだ。
安芸武田氏と厳島神社、この二つが広島市域で勢力を争っていた——そんな話をしたのだが、聞き慣れないというより、たぶん「小さい話だな」と受け取られたのだと思う。
なので今日は、少し補足をしておきたい。
なぜ小さく聞こえたのか。
答えは単純で、当時の広島市域が中国地方の中心ではなかったからだ。
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そもそも安芸国がバラバラだった
安芸武田氏は安芸の守護、いまでいう知事のような立場だった。
ただ、その力は安芸全体には及んでいない。
各地には国人領主——その土地に根を張った小さな領主がいて、たとえば安芸高田市の郡山城を拠点にした毛利家も、そのひとつだった。
広島市域に限れば、先の安芸武田氏と厳島神社の社領、この二つが主な勢力だった。
だが中国地方全体で見ると、安芸も備後も、どちらも中心ではなかった。
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中心は、山口の大内氏だった
では中心はどこか。大内家の山口だ。
大内は守護大名であると同時に、日明貿易をほぼ一手に握っていた。
当時は倭寇が海で荒稼ぎしていたから、これは正式な国の貿易船だと証を立てる必要があり、その割り符が勘合符だ。
堺の細川氏と寧波で衝突して以降、大内はこの巨利を独占する。
貿易は昔から莫大な利益を生む。
銀や生糸で儲け、博多まで抑えていた。
30代の大内義興にいたっては、京都を追われた将軍を奉じて上洛し、11年も京にとどまって、管領代として幕政を動かした。
家柄の壁で管領そのものにはなれず「代」がついたが、実質は副将軍だ。
京に長くいた義興は、山口を小京都に造り替えていく。
山に囲まれた盆地の真ん中を川が流れる地形は、たしかに京都によく似ている。
屋敷も、城ではなく京都御所を思わせる造りにした。
応仁の乱で荒れた京から公家や文化人が移り住むほど、山口は栄えた。
のちに宣教師フランシスコ・ザビエルが人口一万ほどと書き残したとも伝わり、数字の確かさはさておき「西の京都」と呼ばれた。
九州や四国を別にすれば、織田信長より前に西日本で最大の勢力を誇った、天下人に片足をかけた家だったといっていい。
象徴的な話がある。
全国の神社の頂点である伊勢神宮は、その分霊を各地に勧請させなかった。
伊勢神宮に唯一並び立つとすれば出雲大社くらいで、伊勢が表なら出雲は裏、天を治める側と人を治める側、といった対の関係になっている。
その伊勢を、初めて勅許を得て勧請したのが義興だった。
山口に迎えたのが山口大神宮で、伊勢から直接分霊を受けた神社は、明治になるまで全国で唯一。
それだけの権勢だったということだ。
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広島は、二つの巨大勢力に挟まれていた
義興が京にいるうちに、山陰で尼子氏が力を伸ばしてきた。
本拠は島根・安来の月山富田城。
これが侮れない相手で、大内も京での権力争いに見切りをつけ、山口へ戻ることになる。
大内と尼子は、石見銀山を奪い合った。
銀はそのまま日明貿易の元手になる。
だから両者ゆずらず、銀山は取ったり取られたりを繰り返した。
この二大勢力のせめぎ合いの中に置かれたのが、安芸と備後だ。
挟まれた領主たちは、しょっちゅうどちらにつくかで揺れた。
あの毛利元就でさえ、尼子についたかと思えば大内につき、またその逆へ、と行ったり来たりしている。
東広島市の西条は大内が持っていたが、そこを尼子が狙い、尼子方についた元就が鏡山城を攻めたこともあった。
安芸と備後(広島県)の国人たちは、二つの大勢力に踊らされていたのだ。
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崩れて、ひっくり返って「広島」が生まれる
日本でも有数の名門だった大内家は、外敵にではなく、内側から崩れる。
1551年、家臣の陶晴賢が、主君・大内義隆とその世継ぎを長門の大寧寺で討つ(大寧寺の変)。
西国随一と謳われた家が、あっけないほど内から折れた。
屋台骨が抜ければ、大内についていた国人たちの結束も乱れる。
大内家の殿様についていたのに陶なんぞは知らん——そんな空気が広がって、足並みが崩れていった。
そこを突いたのが毛利元就だった。
1555年、陶晴賢と元就は厳島でぶつかる。
兵力は陶が約二万、元就は四、五千。
四倍の差を、元就は謀略を尽くしてひっくり返した(厳島の戦い)。
かつて広島市域の一方の主だった厳島神社の島が、勝敗を決める舞台になった。
元就はそのまま大内の版図を呑み、返す刀で尼子も倒す。
二つの勢力に振り回されるだけだった郡山の一領主が、一気に中国地方の覇者へと駆け上がった。
昨日まで翻弄される側だった家が、翻弄する側に回ったわけだ。
そして元就の孫・輝元の代になって、毛利は太田川の三角州——葦の茂る低湿地に、あえて城を築く。
そこを「広島」と名づけた。
ここで初めて「広島」という地名が世に出て、この土地が中国地方の中心になっていくのだ。
つまり広島市域は、中心になる前は、振り回される端っこだった。
府中町に国府が置かれ、古くから人は多く住んでいたが、大きな支配者の都ではなかった。
だからこそ、前回の話は小さく聞こえたのだと思う。
広島市は最初から中心だったわけではない。
いま僕たちが当たり前に呼んでいる「広島」という地名の裏には、そういう長い前史がある。
前回の話では広島がまだ、その前史の中にいたのだ。
次回は毛利輝元が広島城、いや、広島の街を作るところから始めよう。