メディアの民主化と、その過渡期
昔、情報発信は大きなメディアにしかできなかった。
戦前ならラジオだろう。
送信設備が要るし、電波帯も要る。
戦後のテレビも許認可制だ。
新聞は個人でも出せるだろうと言う人がいるかもだが、紙である以上、現実には無理がある。
メディアは長いあいだ、限られた者の特権だった。
それがインターネットで変わった。
個人でも、テレビや新聞といった大きな会社のメディアに匹敵する影響力を持ちうるようになった。
メディアの民主化である。
ただし僕たちは、いまその過渡期にいる。
過渡期というのは、古い前提がまだ効いているのに、実態のほうが先に変わってしまっている時期のことだ。
---
広島県の投稿に、ひっかかった
広島県のFacebookに、こんな投稿があった。
暑い日には広島のさっぱりグルメ、今が旬のコイワシの刺身、刺身で食べるのは広島だけ——という趣旨のものだ。
見た瞬間、えっ、と思った。古い投稿が流れてきたのかな?と考えた。
今日は8月19日だ。
コイワシ(カタクチイワシ)が今この時期に旬というのは、明らかにおかしい。
ところが表示は13時間前だった。
間違いなく、8月19日の投稿なのだ。
何がおかしいのか。
順に書いていきたい。
---
そもそも「旬」とは何か
まず、魚の旬とは何かという定義だ。
ここを決めないまま「今が旬」とは言えないはずだ。
旬には少なくとも3つある。
1.一番おいしい時期
2.一番たくさん獲れる時期
3.マーケティングで作られた旬だ
食べる側は、一番おいしい時が旬であってほしいと思う。
だが漁師にしてみれば、たくさん獲れて儲かる時が旬でもある。
やっかいなのは3つ目だ。
オコゼやアコウ(キジハタ)は夏が旬とされがちだが、あれは作られた旬だと僕は見ている。
どちらも底物で、特にオコゼはほとんど動かない。
動かない魚は季節による味の変動が小さく、夏でもそこそこうまい。
夏にうまい魚が少ないのだから、この魚を夏の旬ということにしよう——そういう話である。
実際に食べ比べれば、わずかとはいえ冬に軍配が上がる。
アコウも同じハタ科で、クエの旬が冬であるのと事情は変わらない。
その点、鯛はわかりやすい。
産卵前の3月から4月あたりまでは身に味がある。
産卵を終えた初夏には痩せて、麦わら鯛と呼ばれる。
瀬戸内で本当に夏がうまいのは、メイタガレイ、マコガレイ、ホシガレイの類だ。
ところがこれが手に入らない。
獲れる量が少ないうえ、昔と違って年々獲れなくなっているので値も張る。
ところが底引きが動く冬には割と出てくるのだが、冬のカレイはスカスカで全くおいしくない。
一番おいしい時期に、その魚に適した漁が行われず、ほとんど市場に出てこない。
獲れるからおいしいわけではないし、おいしいから獲れるわけでもない。
旬とは、そのくらいややこしい。
---
いま、コイワシは揚がっていない
ではコイワシはどうか。
そもそもこの魚は、旬の把握が難しい部類に入る。
産卵期が年に2回あるらしく、おいしい時期も2回に分かれる。
同じ海域でも卵を持った群れと持たない群れがいたりする。
海の中で最も他の魚に食べられる魚だから、数で対抗する戦略を取っているのだろう。
そのぶん、明確にここが旬だと言い切りにくい。
そのうえで、広島のコイワシ(カタクチイワシ)には漁期がある。
獲れたその日のうちに水揚げして手当てしたものが刺身として最もおいしいのだが、そこまでの手間をかけるのは広島市域くらいのものだ。
尾道や福山のあたりでは、大きいものを煮干し、小さいものをちりめんじゃこにする。
この漁期は、毎年この日からと機械的に決まっているわけではない。
そろそろ獲ってもよさそうだという頃合いで解禁になり、ある程度獲ったところで、これ以上は資源が枯渇するかもしれないからそろそろやめようか、という形で止まる。
秋にもう一度漁期が立つこともある。
今年の解禁は6月10日だった。
今年は水揚げの期間が長く、そこから3、4週間はしっかり揚がっていたと思う。
報道では、漁は7月末までの予定とされていた。
つまり今は漁期の外である。
8月19日の広島市域に、その日獲れたコイワシは出回っていない。
魚が揚がっていないのに旬だというのは、明らかにおかしいだろうという話だ。
時々、鮮魚店に並んでいることがあるけれど、あれは隣の山口県のものが多い。
山口はそこまで厳しくしていないし、広島の人間が喜んで食べるから持ってくる。
1日経ってはいるが、刺身にはなる。
ただ、山口県産のコイワシを指して広島県が「今が旬」と言うのは、やはり筋が通らない。
---
信頼は、資本金である
ここからが本題だ。
この投稿がさほど突っ込まれないのは、広島県というメディアがまだ信頼されているからである。
そういうものかな、と受け取ってもらえる。
僕のような人間が「おいおい」と言う程度で済んでいる。
だが、こういうことを繰り返せば信頼は毀損されていく。
またやっている、と呆れられ、やがて誰も見なくなる。
個人メディアなら即座にそうなる。
シャオヘイの言うことは当てにならない、再生数が欲しいだけだ——そう思われたら終わりである。
広島県のその信頼は、長い時間をかけて培われたものだろう。
それをこの程度のことで削り続けていいのか。
信頼という名の資本金が目減りしている、と僕には見える。
気がついた時には枯渇している。
信頼は、失われる時は一瞬である。
あいつはもうだめだ、ろくなものじゃない。
そう思われたら、そこから戻すのは難しい。
僕の発信は、僕が責任を持つしかない。
誰も守ってはくれないし、誰も代わりに責任を取ってはくれない。
だから何を言うか、何を言わないかを、ものすごく考えてやっている。
いまはまだ貯金があるからいい。
けれど、県だから信頼されて当然と思っているなら、それは危うい。