花粉症の話、眼内レンズの夢想、そしてほぼ前置きなしに放り込まれる「黄泉の橋、帰り渡ってない」という告白。二人の会話はいつも、そういうふうに始まる。深刻と笑いの境界線が、最初から引かれていない。
今回の核心は、三つの橋をめぐる話だと思う。一つ目は二荒山神社の神橋——結婚式で渡ることを許された、神と人の境界線。渡りながら紙飛行機に書いた言葉が、「楽しい」と「幸せ」でずれていた。七年分の時間を経てようやく浮かび上がってきた、同じ方向を向いていた二人の、わずかな視線の差。二つ目は恐山の黄泉の橋——かつて二人で渡り、片方だけが帰ってこなかった橋。冗談か本気かわからないまま宙に浮いたまま、今夜もそのままにされた。三つ目は、時間という橋。東北を縦断していた二十二歳の二人と、今夜話している彼らの間に架かっている、戻れない橋。
「やられて嫌なことは人にしてはいけない、からちょっと離れようとしている」という言葉が、ひっそりと重い。被害者だったはずが加害者になっていく連鎖の話は、子育ての話に地続きに繋がっていく。せいちゃんの「ニッション」という造語——説明してもらった瞬間に、その言葉はもう純粋ではなくなった。名前をつけることは定着であり、同時に変質でもある。言語とはそういうもので、親が子に何かを渡す行為もまた、そういうものかもしれない。
話はやがて、みっちゃんの口の中に指を突っ込む話、寝返りを拒絶する意思の強さ、絵本の文字が少ない方が楽な話へと着地する。哲学的な問いと野糞の記憶が同じ重さで並んでいるこの会話は、それ自体がひとつの生態図鑑になっている。