ノグソの話から始まる。だがそれはすぐに、土壌学の話になる。火山活動が生み出す燐酸の循環、いつか訪れる砂漠化、そして登山家とは地球規模の栄養循環を担うために呼び寄せられた存在なのかもしれないという仮説。野外排泄を宇宙的な文脈に置き直すこの発想の飛躍は、この番組の基本文法だ。もんこたんめんで山の中で腹を下した友人の話は、その壮大な理論の傍らにあっても、ちゃんと笑える。
後半、会話は寝る前の妄想の話に移る。布団が船になり、大海原をただよう——という妄想を4歳から今も続けているという告白と、ゴミ溜めの中で強酸性の雨を凌ぎながら、脊髄の先に人の頭がついた肉の塊と戦っている——という告白が、同じ温度で並べられる。どちらも37歳の寝床で起きていることだ。
そこから二人は、想像力とは何かという問いに入っていく。人の顔と名前が覚えられない、という話。他者を個人として認識せず、物質や記号として処理してしまっているのかもしれない、という自己分析。一方で、一瞬しか話していない人でもキャラ化して記憶の中に住まわせている、という対比。人を「実体として覚える」のではなく「物語の登場人物として定着させる」——この二つのモードの違いは、想像力の問題というより、世界の見え方そのものの構造の違いに近い。二人はそれを「宗教の違い」と呼んだ。
クラーケンと大海原と脊髄の肉塊が、それぞれの寝室に静かに棲んでいる。