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#11 ライブお酒飲みながら子育て話とか

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深夜の垂れ流し、あるいは父親という観察者の記録 習い事という「軸」の問題 せいちゃんのバレエ入会を起点に、なかじと丹羽くんが辿り着いたのは「どの運動から始めるか」という実務的な問いではなく、何が何に転用できるかという可能性の構造論だった。バレー体幹はダンスバトルへ繋がるが、逆は成立しない。サッカーから陸上へは行けるが、陸上からサッカーへは難しい。子供の習い事を選ぶという行為の背後に、人間の能力には変換可能な方向性があるという暗黙の世界観が潜んでいる。 格闘技を「やらせたくない」となかじの本音は、理不尽な指導者との過去の記憶に根ざしている。しかし彼はそれをわがままと自称しながら、同時にそのバイアスの存在を冷静に観察してもいる。傷は判断を歪めるが、その歪みに気づいている者は、完全には歪んでいない。 早熟と天才の非同一性 「成長が早い=天才ではない」という命題を、なかじは自分自身の発達の遅さを根拠に立てる。発達の速度は才能の総量ではなく、単なる時間軸上の位相のずれに過ぎない。本物の天才であれば、いずれ追い越していくのだから、今の優位は証明にならない。 これはせいちゃんへの過剰な期待を戒める実践的な態度であると同時に、人間の評価を静的な断面で行うことへの根本的な懐疑でもある。「俺もできるよ、普通だよ」というスタンスは、親としての謙虚さであるより前に、認識論上の誠実さだ。 父親という、最も近い他者 ウインクがせいちゃんに届かなかったエピソードが、妙に響く。見られたくない娘と、見ていたい父。「恥ずかしいは自立の証」と言いながら、なかじはその非対称な視線を受け入れる。子育ての本質はおそらく、親が子供の他者性に気づいていく過程なのかもしれない。 丹羽くんの「俺より後に死んでくれればいい」という一言は、子育ての目標をすべて剥ぎ取った後に残る最小限の願いだ。結果でも成功でもなく、ただ順序として先に逝くこと。これ以上削れない子育て論がある。 形式について 今回初めてライブ配信という形式を試みたこと自体も、この会話の内容と響き合っている。録音して編集して届けるのではなく、垂れ流す。せいちゃんが練習を見られることを恥ずかしがるように、未完成のまま公開することには固有の誠実さがある。「どうせ無編集で出すし」という言葉は、方法論の放棄ではなく、一種の存在の宣言として聞こえる。​​​​​​​​​​​​​​​​
4月4日
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