那須川天心さんの試合を見て、スポーツと戦争のことを考えた
今日、那須川天心さんの試合を見た。
5ヶ月前に初めての敗北を喫してから、彼がどれほど準備してきたか、試合を通じてそれがはっきりと伝わった。
相手のエストラーダ選手も、これまで積み上げてきた勝利の重みを持つ、本当に強いボクサーだった。
試合後に彼が引退を迎えるかもしれないという事実も含めて、勝者の努力も敗者の悲しみも、すべてが凝縮された場だった。
殴り合いだが、これは間違いなくスポーツだと思った。
---
ボクシングが「わかりやすい」理由
普段、ボクシングをそれほど熱心に見るわけではない。
ただ、井上尚弥さんにしても那須川天心さんにしても、トップレベルの試合はやはり別格だ。
競技の種類を問わず、本当のトップはすごい。
ただ、スポーツには「わかりやすさ」の差がある。
スケートボードは、正直なところ僕には技の難易度がよく判断できない。
でもボクシングは違う。
突き詰めれば人間同士の殴り合いという、ひどく原始的なスポーツだ。
だからこそわかりやすい。
ルールの説明をほとんど必要としない。
スポーツはルールが複雑になればなるほど、そのルールを読み解くゲームになっていく。
野球はその典型で、なぜ打者は必ず一塁方向へ走らなければならないのか、なぜボールではなく人間が動かなければならないのか——サッカーやラグビーとは根本的に異なる構造を持っている。
それはそれで面白いのだが、ボクシングのような原始性とはまったく別の楽しさだ。
原始的であればあるほど、スポーツの面白さは純粋になると思っている。
---
一騎打ちという文化
話は少し飛ぶ。
少し前に、なぜ戦争が起きるのかという仕組みについて書いた。
「新書 世界現代史 なぜ「力こそ正義」はよみがえったのか」を読んで、深く考えさせられたという内容だ。
https://note.com/xiaohei/n/n075938b3428f
その流れで今日も考えたのだが、戦争を何とかしようとするとき、スポーツは一つの手段たりえるのではないかということだ。
もちろん、スポーツが戦争の引き金になった事例もある。
単純な話ではない。
ただ、歴史を見ると、大量殺戮ではなく「一騎打ち」で勝敗を決しようとする文化は、日本に限らず世界各地に存在してきた。
「やあやあ我こそは」の一騎打ち。
アメリカ西部劇のガンマン同士の早撃ち。
野球のピッチャーとバッターの対決。
どれも本質は同じで、代表者が一対一で戦うことで集団の勝敗を決する、という発想だ。
ボクシングはその最も純粋な形だと思う。
---
人の本性には逆らえない
リベラリズムがこれだけ後退した理由の一つは、人間の本能を否定しすぎたからではないか——これも前回指摘した通りだ。
人間の暴力性を完全に否定し続けることは、おそらく無理だ。
本能に近いものだから、将来的にもゼロにはならないだろう。
特に男性においては「勝たなければならない」という感覚が本性として刷り込まれている部分がある。
自分の家族を守る、競争に勝つ——それは決してリベラリズムが望ましいとする方向ではないが、現実として多くの男性が持っている感覚だと思う。僕自身もそれはよくわかる。
人の本性には、逆らえない。
だとすれば、その本性をゼロにしようとするのではなく、ルールの中に収めることを考えるほうが現実的ではないか。
---
殲滅戦ではなく、ルールある争いを
最近の国際情勢を見ていると、不安になることがある。
「あの国が将来攻撃してくるかもしれない」という論理で先制攻撃を正当化しようとする動きがある。
しかしその論理を突き詰めると、どの国も潜在的な脅威になりえるから、世界中を滅ぼすことになってしまう。
どこかでおかしくなっている。
お互いが相手を殲滅できるほどの兵器を持ってしまったなら、逆説的にそれは「使えない武器」になる。
だとすれば、ルールを決めてその中で争うという発想が生まれてもいいはずだ。
夢物語だとわかっている。
誰が代表するのか、体重差はどうするのか、山ほど問題がある。
現実的に実現するとは思っていない。
ただ、那須川天心さんの試合を見た後に、こういうことを考えてしまった。
殴り合いであっても、ルールと敬意の中で行われる戦いは、見る者の心を動かす。
勝者の努力も、敗者の悲しみも、ちゃんとそこに人間が透けて見える。
国と国の争いが、いつかそういうものになれたらいい。
---
那須川天心さん、本当にいい試合でした。