腹が立ったので、なぜ腹が立ったのかを考えた
ネットで「美味しんぼ」の作者・雁屋哲さんに対する批判を読んだ。
「主義主張が強すぎるから参考にならない」というものだった。
よくある批判だな、と最初は思った。
だがじわじわと腹が立ってきて、なぜ腹が立つのかを少し考えてみた。
結論から言うと、その批判の構造自体に問題がある。
強い言い方をすれば、卑怯なのだ。
僕は卑怯なことが大嫌いだ。
だからこのことについて、少し話をしてみようと思う。
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「正解がある」という暗黙の前提
「主義主張が強すぎる」という批判は、暗黙のうちに「正解の存在」を前提にしている。
正解があって、そこからずれているから参考にならない——という理屈なのだと思う。
だが、そもそも食や料理の世界に「正解」はあるのだろうか。
雁屋哲さんが描いたのは「本物の食とは何か」という問いだった。
それに対して、彼が経験し理解した範囲での答えを述べた。
彼が参考にした北大路魯山人の思想も、根っこは同じだ。
魯山人が生涯をかけて追ったのは「美とは何か」という問いであって、それに対する彼なりの確信だった。
先日、NHKで『魯山人のかまど』というドラマがあって、見逃し配信で見た。
僕は魯山人の書き残したものしか読んでいないが、あのドラマはよく表現されていると思った。
俳優さんたちも素晴らしかった。
ただ、これもかなり批判されているのだ。
ええ?これを批判するのか?と驚いた。
「美味しんぼ」と、まったく同じ構造だと感じた。
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相手を選ばない批判は、実質何も言っていない
「正解かどうかわからない」という批判は、あらゆる叩き台に対して通用する万能の武器だ。
北大路魯山人にも、雁屋哲にも、もちろん僕に対しても、同じ言葉を投げることができる。
相手を選ばない批判というのは、実質的に何も言っていないのと同じだ。
https://note.com/xiaohei/n/n8fd5a1587d72
そもそも、何かの価値を示すということは叩き台を出すということだ。
叩き台を出す側は自分の立場を晒すリスクを負う。
間違えれば恥をかく。
後年、時代に否定されるかもしれない。
その覚悟で自分の意見を述べている。
一方、叩く側にはリスクがない。
相手の論理の穴を突けばいいだけだ。
「それは違うんじゃないか」と言えば済む。
じゃああなたの仮説は何か、あなたの叩き台を示してください——そう言いたくなる。
でも叩く側は示さなくていい。
これが、僕が卑怯と感じる理由だ。
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叩き台を出した人が、功績を引き受けるべきだ
魯山人は傲慢で偏屈だったと叩かれた。
実際、書き残されたものを読んでもなかなかの人物だと思う。
雁屋哲さんも連載中ずっと批判にさらされてきた。
僕も彼の意見を全て肯定するわけではないし、これはちょっと違うよなと思うものもある。
だが、自分なりの意見を言い続けたこと自体が価値なのだと思う。
批判を受け続けるコストの上に、あの仕事は成り立っている。
彼らの仕事が今でも参照される理由は「正しいから」ではない。
「強い問いを立てたから」だ。
「俺はこう思う、あなたはどう思うか」と言ったからだ。
強い主張があるから、人は反論したくなる。
ここで注意してほしいのだが「それは違う」というのは反論ではない。
反論とは「自分はこう思う」と別の仮説を立てることだ。
これが揃って初めて議論が動く。
議論が動くから思考が深まる。
魯山人への批判から思考が深まり、新しい何かが生まれていく——この構造を理解しないまま「言ってることが正しくない」と言うのは、批判にすらなっていない。
そして仮に議論の末に素晴らしい結論にたどり着いたとき、その功績は誰が引き受けるべきか。
僕は、叩き台を示した人だと思っている。
たとえ最初の意見が間違っていたとしても、そこから出発した議論が素晴らしい場所に到達したなら、それは叩き台を出した人の功績だ。
結論を出した人が素晴らしいのではなく、旗を立てた人が一番すごい。
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不完全でも旗を立てることに意味がある
100年後も完璧な意見など存在しない。
だから不完全でも、旗を立てることに意味がある。
自分の考えを晒して叩かれて、それでも考え続ける。
これが知的な営みの本質だと思う。
無難にまとめられた意見、誰も傷がつかない言葉、当たり障りのない結論——そういうものは確かに批判されない。
だが誰の心にも残らないし、社会を前に進める議論にはならないと思う。
日本社会の中で、叩き台を出す人へのリスペクトがやや足りていないと感じることがある。
すごい勇気がいることなのだ。
誰もそんなことを言いたくない状況の中で「僕はこう思う」と旗を立てた人がいるから、そこからいろんな話ができる。
「違う」「こうだ」「こっちじゃないか」——議論が始まるのは、最初に誰かが旗を立てた後のことだ。
批判するなら、同じコストを払ってほしい。
レストラン評論についても同じだと思う。
そして当然、自分がそのコストを払っているかということは、常に自分自身に問い返さなければいけない。
間違っているかもしれないから意見を言わない——それが一番、社会の議論を止める行為だと思う。
だから僕は、これからも自分の意見を述べ続けるつもりだ。