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快食ボイス846・本通りの原型は、西国街道だった

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山を下りた城 ―― 広島はなぜ川の中州に建ったのか 広島市域の歴史も4回目になる。 今回は毛利輝元が広島城を築くところから始めたい。 輝元は元就の孫にあたる。 父の隆元が早くに亡くなったので、輝元は11歳で毛利家の家督を継いだ。 祖父・元就の後見のもとで育ち、元就の死後は実質的に毛利家を切り盛りしていく。 その輝元が、なぜ本拠を安芸高田の郡山城から、はるか南の中州へ移したのか。 郡山城は山の上に築かれた、典型的な戦のための山城である。 その山を、輝元は下りた。 --- 戦の城から、経済の城へ この頃にはもう豊臣秀吉が天下人になっていた。 もともと秀吉は織田信長の中国方面軍の司令官で、備中高松城で毛利とぶつかっていた相手だ。 ところが本能寺の変が起きて秀吉が京へ引き返すとき、毛利は背後から追い討ちをかけなかった。 逃げる相手を後ろから叩けば大きな痛手を与えられたはずだが、あえてしなかった。 この抑制が信任につながる。 やがて秀吉は、老いた自分の死後を託す補佐役として五大老を置くが、徳川家康とともに輝元もその一人に名を連ねた。 その輝元が城の手本にしたのが、秀吉の大阪城だと言われている。 大阪の地は広島と同じで地盤が緩く、その多くは埋め立てだが、南から伸びる上町台地だけは古くから堅牢な土地。 その北端に建つのが大阪城だ。 かつてここには石山本願寺があり、信長が攻めあぐねた。 毛利が海から兵糧を運んで支えたのも、この寺である。 その跡地に建った城が経済の中心になっていくのを見て、輝元は悟ったのだと思う。 もう山の上で戦をする時代ではない、と。 天下はほぼ統一され、本気で喧嘩を売る相手はいない。 ならば城は、戦の砦ではなく経済を回す拠点であるべきだ。 そう考えて、川と海に囲まれた中州に城を築いた。 むろん、いざという時の砦の役目も残してはいる。 だが主眼は、もう戦ではなかった。 --- 川と海に囲まれた、広い島 広島という名の由来は諸説あるが、大田川がいくつもの筋に分かれて海へ注ぐ、その中州でいちばん広い島だったから、という説が挙げられる。 城は川の中に建つので、川そのものが堀の役目を果たす。 人の手で掘らずとも、地形がそのまま守りになっているわけだ。 毛利は石見銀山を持ち、江戸期に入れば中国山地はたたら製鉄の一大産地になっていく。 山から掘り出した銀や鉄を、川を使って城下まで運び下ろす。 当時の陸路は人か馬、せいぜい牛に頼るしかなく、大量に運ぶには船に勝るものがなかった。 太田川の上流、可部の町にいったん鉄や銀を集め、そこから船で城下まで下ろす。 可部が物資の集散地として発展したのも、川あってのことだ。 逆に、集めた物を沖へ、外へと売りに出すのにも船が要る。 海沿いの平城は、そのまま海運の城でもあったわけだ。 この時代以降こうした城が増えるのは、もう戦争のための城ではないことの表れでもある。 --- 9年で去った毛利、20年で町をつくった福島 ところが関ヶ原で、喧嘩相手が現れる。 輝元は西軍の総大将となり、東軍の徳川家康に敗れた。 責任を取って周防・長門、のちの長州へ減封される。 築城から数えて9年目、輝元は広島を去った。 代わって入ったのが福島正則だ。 秀吉の縁者、いとこだったとも言われる武将で、20年ほどこの地にとどまり、実質的な広島城と城下町を築いた。 喫水の浅い城下まで大船は入れないので、江波に沖からの大船を着ける港を設け、そこから北は平底の船に積み替えて物を運び込む。 北前船のような外の船とつながって、城下町は大いに栄えた。 そして福島は、古代からの西国街道を城下へ引き直す。 府中から祇園のあたりを抜けていた古い道筋を、南の城下へと付け替えたのだ。 それが今の平和公園を突っ切り、本通りへと真っ直ぐ抜けていく。 宿や薬屋、呉服屋、金物屋といった旅人相手の店が並び、本通りにいまも刃物や鎌を売る店が残るのは、その江戸以来の名残だ。 本通り商店街の原型は、福島正則がつくったと言っていい。 その福島も、大坂の陣で豊臣が滅んだあと、城を無断で直したという因縁をつけられ、信濃へ転封された。 豊臣を滅ぼしたあとで、その縁者を広島ほどの大国に置いておくのは危うい。 当初は津軽へという話もあったらしいが、そこはさすがに酷というので信濃に落ち着いた、と伝わる。 --- 幕府軍の本拠地になった城 福島の次に来たのが浅野家だ。 徳川に近い家で、豊臣に近い福島から徳川に近い浅野へ、という交代でもある。 城下の仕組みはすでに福島が整えていたから、浅野の時代に大きな事件は少ない。 そのまま幕末まで続くのだが、その終盤になって、この城は思わぬ役割を担うことになる。 第一次長州征討では、長州を討つべく諸藩の兵が広島城に集まった。 総勢15万とも伝わる大軍である。 このときは西郷隆盛が岩国の吉川経幹と談判し、三家老の切腹などを条件に、交戦のないまま兵を引いた。 ところが第二次で長州はふたたび幕府に逆らい、幕府は再び広島に大軍を集めて攻め込む。 広島城の軍勢が受け持ったのは玖波あたりの戦いで、芸州口の戦いと言う。 旧式の装備で挑んだ幕府軍は、新式の銃で戦う少数の長州軍にまるで歯が立たなかった。 数で圧倒するはずが、逆にねじ伏せられたのである。 これで幕府の権威は地に落ちる。 武威の論理で保ってきた権威がひとたび崩れれば、あとは大政奉還、廃藩置県へと一気に転がっていく。 浅野家はそのまま、廃藩置県のあと知藩事となった。 ともあれ広島城は、幕府軍(徳川家)と長州軍(毛利家)が正面からぶつかったこの局面で、幕府方の本拠地としての役割を果たしたのだ。 ここから先は、いよいよ近代の広島の話になる。 いま僕たちが暮らすこの街が栄えていくきっかけへと、歴史がだいぶ近づいてきた。 城が戦の道具でなくなったところから、街の物語のほうが動きはじめる。 続きは、また次回に。
8月1日
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