山を下りた城 ―― 広島はなぜ川の中州に建ったのか
広島市域の歴史も4回目になる。
今回は毛利輝元が広島城を築くところから始めたい。
輝元は元就の孫にあたる。
父の隆元が早くに亡くなったので、輝元は11歳で毛利家の家督を継いだ。
祖父・元就の後見のもとで育ち、元就の死後は実質的に毛利家を切り盛りしていく。
その輝元が、なぜ本拠を安芸高田の郡山城から、はるか南の中州へ移したのか。
郡山城は山の上に築かれた、典型的な戦のための山城である。
その山を、輝元は下りた。
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戦の城から、経済の城へ
この頃にはもう豊臣秀吉が天下人になっていた。
もともと秀吉は織田信長の中国方面軍の司令官で、備中高松城で毛利とぶつかっていた相手だ。
ところが本能寺の変が起きて秀吉が京へ引き返すとき、毛利は背後から追い討ちをかけなかった。
逃げる相手を後ろから叩けば大きな痛手を与えられたはずだが、あえてしなかった。
この抑制が信任につながる。
やがて秀吉は、老いた自分の死後を託す補佐役として五大老を置くが、徳川家康とともに輝元もその一人に名を連ねた。
その輝元が城の手本にしたのが、秀吉の大阪城だと言われている。
大阪の地は広島と同じで地盤が緩く、その多くは埋め立てだが、南から伸びる上町台地だけは古くから堅牢な土地。
その北端に建つのが大阪城だ。
かつてここには石山本願寺があり、信長が攻めあぐねた。
毛利が海から兵糧を運んで支えたのも、この寺である。
その跡地に建った城が経済の中心になっていくのを見て、輝元は悟ったのだと思う。
もう山の上で戦をする時代ではない、と。
天下はほぼ統一され、本気で喧嘩を売る相手はいない。
ならば城は、戦の砦ではなく経済を回す拠点であるべきだ。
そう考えて、川と海に囲まれた中州に城を築いた。
むろん、いざという時の砦の役目も残してはいる。
だが主眼は、もう戦ではなかった。
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川と海に囲まれた、広い島
広島という名の由来は諸説あるが、大田川がいくつもの筋に分かれて海へ注ぐ、その中州でいちばん広い島だったから、という説が挙げられる。
城は川の中に建つので、川そのものが堀の役目を果たす。
人の手で掘らずとも、地形がそのまま守りになっているわけだ。
毛利は石見銀山を持ち、江戸期に入れば中国山地はたたら製鉄の一大産地になっていく。
山から掘り出した銀や鉄を、川を使って城下まで運び下ろす。
当時の陸路は人か馬、せいぜい牛に頼るしかなく、大量に運ぶには船に勝るものがなかった。
太田川の上流、可部の町にいったん鉄や銀を集め、そこから船で城下まで下ろす。
可部が物資の集散地として発展したのも、川あってのことだ。
逆に、集めた物を沖へ、外へと売りに出すのにも船が要る。
海沿いの平城は、そのまま海運の城でもあったわけだ。
この時代以降こうした城が増えるのは、もう戦争のための城ではないことの表れでもある。
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9年で去った毛利、20年で町をつくった福島
ところが関ヶ原で、喧嘩相手が現れる。
輝元は西軍の総大将となり、東軍の徳川家康に敗れた。
責任を取って周防・長門、のちの長州へ減封される。
築城から数えて9年目、輝元は広島を去った。
代わって入ったのが福島正則だ。
秀吉の縁者、いとこだったとも言われる武将で、20年ほどこの地にとどまり、実質的な広島城と城下町を築いた。
喫水の浅い城下まで大船は入れないので、江波に沖からの大船を着ける港を設け、そこから北は平底の船に積み替えて物を運び込む。
北前船のような外の船とつながって、城下町は大いに栄えた。
そして福島は、古代からの西国街道を城下へ引き直す。
府中から祇園のあたりを抜けていた古い道筋を、南の城下へと付け替えたのだ。
それが今の平和公園を突っ切り、本通りへと真っ直ぐ抜けていく。
宿や薬屋、呉服屋、金物屋といった旅人相手の店が並び、本通りにいまも刃物や鎌を売る店が残るのは、その江戸以来の名残だ。
本通り商店街の原型は、福島正則がつくったと言っていい。
その福島も、大坂の陣で豊臣が滅んだあと、城を無断で直したという因縁をつけられ、信濃へ転封された。
豊臣を滅ぼしたあとで、その縁者を広島ほどの大国に置いておくのは危うい。
当初は津軽へという話もあったらしいが、そこはさすがに酷というので信濃に落ち着いた、と伝わる。
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幕府軍の本拠地になった城
福島の次に来たのが浅野家だ。
徳川に近い家で、豊臣に近い福島から徳川に近い浅野へ、という交代でもある。
城下の仕組みはすでに福島が整えていたから、浅野の時代に大きな事件は少ない。
そのまま幕末まで続くのだが、その終盤になって、この城は思わぬ役割を担うことになる。
第一次長州征討では、長州を討つべく諸藩の兵が広島城に集まった。
総勢15万とも伝わる大軍である。
このときは西郷隆盛が岩国の吉川経幹と談判し、三家老の切腹などを条件に、交戦のないまま兵を引いた。
ところが第二次で長州はふたたび幕府に逆らい、幕府は再び広島に大軍を集めて攻め込む。
広島城の軍勢が受け持ったのは玖波あたりの戦いで、芸州口の戦いと言う。
旧式の装備で挑んだ幕府軍は、新式の銃で戦う少数の長州軍にまるで歯が立たなかった。
数で圧倒するはずが、逆にねじ伏せられたのである。
これで幕府の権威は地に落ちる。
武威の論理で保ってきた権威がひとたび崩れれば、あとは大政奉還、廃藩置県へと一気に転がっていく。
浅野家はそのまま、廃藩置県のあと知藩事となった。
ともあれ広島城は、幕府軍(徳川家)と長州軍(毛利家)が正面からぶつかったこの局面で、幕府方の本拠地としての役割を果たしたのだ。
ここから先は、いよいよ近代の広島の話になる。
いま僕たちが暮らすこの街が栄えていくきっかけへと、歴史がだいぶ近づいてきた。
城が戦の道具でなくなったところから、街の物語のほうが動きはじめる。
続きは、また次回に。