楽しい文化史第7回、弘仁貞観文化その①です
** この配信は毎週月・金に決めようと思います **
さて、平安初期文化と言えば、最澄と空海
この二人は同じ遣唐使船で渡航しましたが、色々と違います
まず年齢が7歳も違います。最澄のほうが7つ年上です。
最澄は近江の出身で、正式に僧となった後に比叡山で修行します
これが後に延暦寺になります
その活躍を知った桓武天皇が、新しい仏教をもたらすことに期待して、
唐に派遣されました。当時37歳。
翌年には帰国し、天台宗をもたらします。つまり渡唐前から桓武の期待と保護があった。
対して空海は讃岐の出身。渡航時には最澄ほど期待されていたわけではなく、
唐で2年間学んで真言宗を持ち帰ります。すでに桓武は亡くなっており、
空海を保護したのは嵯峨天皇です
空海は嵯峨天皇から東寺を与えられます。
東寺の正式名は「教王護国寺」ですから「護国」です
延暦寺も、その位置は京都の西北、鬼門なので、それを封じる役割も期待されました
空海と嵯峨天皇は、字が上手であるとして「三筆」に数えられますが、
もう一人が橘逸勢ですね
さて密教と言えば加持祈祷です。
ある種の呪術で、国家にも個人にも効果があるようで、
貴族個人の病気平癒などなどに使われるようになる
密教の秘密っぽさと貴族つまり世俗との結びつきは、
矛盾するような気もします
最初から密教色が強かった真言宗はともかく、
天台宗はこれが分裂を起こします
円仁派の山門派と円珍派の寺門派というけど、円仁と円珍が直接に対立したわけではなく
そもそも円仁は最澄の弟子、円珍は最澄の弟子の義真の弟子で、世代が違う
天台宗の密教色が強まる中で、貴族のニーズに応じるべきか否かの対立が大きくなり、
後に円仁が前者、円珍が後者の祖とされた
両者の対立が延暦寺内で暴力的になり、円珍派が延暦寺を追われたのは10世紀の終わり
近江の園城寺は円珍が復興して、天台宗第二の寺院になっていた
寺院や仏像については、次回に
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