「塩っぱい」「薄い」「ぬるい」は批評じゃない
「美食家」という言葉が好きじゃない。
「グルメ」でも同じことだ。
なんとなく「美味しんぼ」の海原雄山みたいに「この味付けはなんだ!」と怒る人物像が伝説的に語られている感じだ。
だが、本当に料理の味がわかる人間は、そういうことはしない。
よく言われる「味が濃い」「薄い」「ぬるい」といった指摘について考えてみる。
塩気が濃いなら調味料を控えればいい。
薄ければ足せばいいし、お湯をさして薄めることもできる。
ぬるければ温め直せばいい。
それだけで改善できておいしくなる料理なら素晴らしいと褒めるべきだ。
問題なのは、そういう表面的な部分ではなく、料理の構造そのものがダメなケースだ。
薄くすればおいしくなるとか、温度を変えればおいしくなるとか、そういうレベルは本質とは関係がない。
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味のロジックを理解した上で語れ
漬物はある程度、塩っぱいものだし、塩辛もふりかけも同様だ。
そういうものだということを前提に食べている。
実際、塩っぱすぎる塩辛もあるが、そういう時は少しだけ食べればいい。
塩味、あるいは甘味が強い味付けにすると、出汁や香りがある程度弱くても料理としてバランスする。
逆に、薄味にするなら、それを補う香りや出汁、旨味の要素が必要になる。
こういう味のロジックを理解した上で語らないと「薄い」「濃い」「ぬるい」はただの感想だ。
批評にならない。
もちろん、一般の人にそんなレベルは求めていない。
ただ、自らをグルメ、インフルエンサー、フーディ、美食家と名乗るならば、そういう料理の基礎ぐらいは押さえておいてほしい。
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食文化は「もったいない」から発展してきた
もうひとつ、重要なことがある。
食材を贅沢に使えば使うほどいいという発想が、食文化の歴史からすると歪(いびつ)ということだ。
食べ手に対する敬意や配慮を示す場面で、贅沢さでその意志を表すという行動は理解できる。
だが、料理というものは基本的に、目の前の素材を大切にするところから生まれてきた。
塩辛は、漁で得たものを長く食べるための工夫だ。
ヨーロッパのハムやベーコンも、豚を屠畜した後に無駄なく保存するための方法として生まれた。
コンフィも、塩で下処理をして油で煮て油の中に漬けて保存するという技術だ。
飢えないための工夫から、料理は発展してきた。
パンも似たような経緯がある。
小麦は精粉して乾かして保存し、食べるときに水を加えて焼いていたが、ある時、練ったものをしばらく放置したら発酵した。
もったいないから焼いてみたら、フラットブレッドよりもふっくらと香ばしくおいしく仕上がった。
インドのナンやチャパティの原型から、発酵パンへの移行も、失敗と節約の産物だ。
豚骨ラーメンが乳化した白濁スープになったのも、諸説あれど「間違えて沸かしてしまった」という話が残っている。
僕はこの話を少し疑っているが、食文化史にはこういう「失敗から生まれた発見」の構造が頻出する。
醤油も、味噌を作っていたら上にたまりが浮いてきて、使ってみたらおいしかったことから発展した。
無駄にしない、副産物を生かす、その積み重ねが今日の食文化を作っている。
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失敗してよかったと思えるとき
実際の話をする。
今日、生成AIのClaudeとやりとりしながら山椒オイルを作った。
山椒の実を漉した後、絞りかすがたくさん残った。
もったいないので、ちりめん山椒に転用できないかと考えた。
作ってみたら、しびれるほど辛いものができてしまった。
Claudeに向かってかなり憤ったが(笑)、今もまだ「これを何とか使えないか」をずっと考えている。
捨てたくないのだ。
山椒オイル自体はちゃんとおいしくできた。
でも失敗した方の副産物も、何かに使えるはずだと信じている。
食文化ってそういうものだ。
この構造——無駄にしない、失敗を生かす、素材を大切にする——が、世界中の食文化のほとんどを支えている。
贅沢なものを贅沢なまま食べることが食の豊かさだという感覚は、この大きな文脈の中では例外的な一部に過ぎない。
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泥臭くやってみないと、永久にわからない
チャラチャラした美食の話だけというのは、本当にもったいないと思う。
手がかかるもの、食べにくい部位、使いにくい食材を、どうおいしく仕上げるかを考え、実際に手を動かしてみる。
伝統的な料理のほとんどは、そういうところから生まれている。
その感覚を自分の手で体験しないと、料理のことは永久にわかるようにならないと僕は思っている。
失敗した料理から何かを生み出せたとき、それが快心の一作になる。
そこにこそ、豊かな食があるのだ。