広電に乗って帰宅していたときのことだ。
いつもどおりiPhoneのPASMOで降りようとしたら、まさかの「残高不足」。
普段は5千円円とか1万円をまとめてチャージしているが、うっかり残高を切らしていたらしい。
駅員さんに「残高不足ですよ」と言われ、その場でチャージしようとした瞬間、近くに座っていたおばあさんが声をかけてきた。
「寒いのに、現金で払えばいいじゃないの」
“ドアが開いて寒い中、モタモタするな”という意味なのだろう。
しかし、残念ながら僕は現金で払う気はさらさらない。
その場でチャージして、タッチ決済で処理した。
でも、このおばあさんが苛立った理由は想像できる。
キャッシュレスに慣れない世代にとって、「自分が普段苦労している仕組みで慣れた風の人がつまずいた瞬間」は“勝機”に見えたのだろう。
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ラッダイト運動と「変化に耐えられない痛み」
19世紀イギリスで起きた「ラッダイト運動」。
産業革命で機械化が進んだとき、職を奪われると感じた人々が機械を打ち壊した出来事だ。
技術が急に進歩すると、必ず「置いていかれる人」が出てくる。
そのときに生まれる圧力は、いつの時代も変わらない。
ただ、歴史を振り返ればわかるように、人間には“寿命”があり、社会は常に世代交代する。
結果として、新しい仕組みは時間とともに社会の標準になる。
キャッシュレスも同じだろう。
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「ついていけない人を守るべきか」という問題
もちろん、高齢者が苦労しているのはわかる。
レジの前で焦ったり、過去にトラブルがあったのかもしれない。
だが「それに気をつかいすぎる」と、社会全体が遅れてしまう。
たとえば現金を残す理由としてよく言われるのが“高齢者のため”だが、現金社会を維持するコストは確実に社会全体の足を引っ張る。
- ATMの維持
- 現金輸送
- 店舗レジでの現金管理
- 両替手数料の増加
- 現金を扱う時間的コスト
そして現金は「脱税・ブラックマネーの温床になりやすい」という現実がある。
キャッシュレスの方が痕跡が残るのだから当然だ。
そういう意味でも、世の中全体はどうしたって現金を減らす方向に進まざるを得ない。
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「現金主義」は思想としてありだが、これからは不利。
若い世代でも現金主義の人はいる。
それは思想としてはまったく自由だ。
ただし、その選択には確実にコストが伴う。
これからは、
- お金を下ろすのに手数料
- 預けるのにも手数料
- 両替にも手数料
という時代になる。
それでも現金を使う人は、強固な信念を持っているのだと思う。
でも僕には、その信念は理解できない。
なぜなら「お金ってただの数字」だからだ。
信用の上に成り立った数字を、紙の形で持ち歩く理由はほとんどない。
キャッシュレスにともなう手数料の問題があるなら、“現金に固執する”のではなく、「どうやって手数料を下げる仕組みを作るか」を議論すべきだ。
本来、主張すべきはそっちのはずだ。
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現金にこだわることは「電気のない生活に戻るべき」というのと同じ
現金を残すべきだ、という話を聞くと、「昔の人は電気なしで生きてたんだから戻ればいい」と言っているのに近い気がする。
現実問題として、もう戻れない。
そして時代は必ず、便利で効率的な方向へ進む。
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まとめ:キャッシュレスの過渡期に起きる、ささやかな衝突
今回、残高不足でちょっとモタついた僕に対して、おばあさんが放った一言は、まさに“過渡期の空気”そのものだった。
- 変化に慣れない世代のストレス
- 新しい仕組みに慣れた世代のスピード感
- 社会の標準が変わるときに必ず起こる摩擦
それらが、ほんの十数秒のやり取りに凝縮されていた。
でも僕は、これからもキャッシュレスを使い続ける。
そしてたぶん、社会の流れもそっちに進み続けるだろう。
現金が少しずつ存在感を失っていく未来を、僕はむしろ歓迎している。