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快食ボイス674・疲労が抜けない事実と、そこに見える人生のメタファー

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今日は、最近感じている「疲労が抜けなくなってきた」という話をしたい。 --- かつては「追い込めば強くなる」と思っていた 昔は多少無茶をしても、筋肉痛になっても、一晩寝ればだいたい回復した。 「この程度なら明日には戻る」──そう思っていた。 ところが最近は、回復のスピードが明らかに遅い。 追い込んだら、身体が動かない時間が長く続く。 四十代までは、追い込めば追い込むほど強くなった。 今は逆だ。 追い込むと、回復に時間がかかり、強さの伸びしろが小さくなる。 回復力の低下という現実を、じわじわと突きつけられている。 --- 体質という才能 周りを見ると、いまだに鬼のように身体を鍛え、ハードに動き続けている人がいる。 ああいう人は若い頃から強い。 たぶん、生まれ持った身体そのものが強い。 回復力もまた、才能のひとつなのだと思う。 一方で、多くの人は年齢とともに、怪我が増え、疲労が抜けず、そして静かに第一線を降りていく。 自分もおそらくそのラインに足をかけていると感じる。 大会に出ようとか、記録を狙おうとか、そういう意欲はもうほとんどない。 ただ、それを完全に諦めたわけではない。 半分は諦め、半分は「いや待てよ」と思っている。 その曖昧さの中で揺れている。 --- 負け戦と知りながら、あがらい続ける 勝てない戦いでも、努力は続けたい。 どうせ最後は死ぬ。 だとしたら、結果ではなく、あがらい続ける姿勢そのものが人生の比喩になる。 身体を動かし続ける理由は、強さの証明ではない。 「まだ動ける」という状態を保ちたいからだ。 ピンピンコロリ──動けるまま生き切る、その理想を目指したい。 また、身体を動かすことは、脳を鍛えることでもある。 手足を動かす時、指令を出しているのは脳だ。 運動すると脳が活性化するという研究があるが、実感としてそれは感じる。 ぼーっとしていると、脳も筋肉も鈍る。 喋ること、学ぶこと、身体を動かすこと、すべてが脳のトレーニングだ。 --- あがらう、という意思 4年前に死にかけるレベルの大怪我をした。 そこからの回復過程で、身体を動かすことの意味を強烈に感じた。 あの時、動かした分だけ脳も身体も目を覚ましていった。 だから僕は、これからもあがらい続けたい。 そうしないと、多分ダメになってしまうタイプの人間だと思っている。 疲労が抜けなくても、動ける時は動く。 負けると分かっていても。 それが、生きるということなのだと思う。
12月8日
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