今日は、最近感じている「疲労が抜けなくなってきた」という話をしたい。
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かつては「追い込めば強くなる」と思っていた
昔は多少無茶をしても、筋肉痛になっても、一晩寝ればだいたい回復した。
「この程度なら明日には戻る」──そう思っていた。
ところが最近は、回復のスピードが明らかに遅い。
追い込んだら、身体が動かない時間が長く続く。
四十代までは、追い込めば追い込むほど強くなった。
今は逆だ。
追い込むと、回復に時間がかかり、強さの伸びしろが小さくなる。
回復力の低下という現実を、じわじわと突きつけられている。
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体質という才能
周りを見ると、いまだに鬼のように身体を鍛え、ハードに動き続けている人がいる。
ああいう人は若い頃から強い。
たぶん、生まれ持った身体そのものが強い。
回復力もまた、才能のひとつなのだと思う。
一方で、多くの人は年齢とともに、怪我が増え、疲労が抜けず、そして静かに第一線を降りていく。
自分もおそらくそのラインに足をかけていると感じる。
大会に出ようとか、記録を狙おうとか、そういう意欲はもうほとんどない。
ただ、それを完全に諦めたわけではない。
半分は諦め、半分は「いや待てよ」と思っている。
その曖昧さの中で揺れている。
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負け戦と知りながら、あがらい続ける
勝てない戦いでも、努力は続けたい。
どうせ最後は死ぬ。
だとしたら、結果ではなく、あがらい続ける姿勢そのものが人生の比喩になる。
身体を動かし続ける理由は、強さの証明ではない。
「まだ動ける」という状態を保ちたいからだ。
ピンピンコロリ──動けるまま生き切る、その理想を目指したい。
また、身体を動かすことは、脳を鍛えることでもある。
手足を動かす時、指令を出しているのは脳だ。
運動すると脳が活性化するという研究があるが、実感としてそれは感じる。
ぼーっとしていると、脳も筋肉も鈍る。
喋ること、学ぶこと、身体を動かすこと、すべてが脳のトレーニングだ。
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あがらう、という意思
4年前に死にかけるレベルの大怪我をした。
そこからの回復過程で、身体を動かすことの意味を強烈に感じた。
あの時、動かした分だけ脳も身体も目を覚ましていった。
だから僕は、これからもあがらい続けたい。
そうしないと、多分ダメになってしまうタイプの人間だと思っている。
疲労が抜けなくても、動ける時は動く。
負けると分かっていても。
それが、生きるということなのだと思う。