はじめに
前回に引き続き「麩の焼き」と「文字焼き」の関係について考えていきたい。
一般には、麩の焼きが文字焼き、ひいてはお好み焼きの源流である、という説明がなされることが多い。
しかし、史料を丁寧に追い、文化の文脈を考慮すると、どうしても腑に落ちない点がいくつも浮かび上がってくる。
本稿では、その違和感の正体を、歴史・階級・地域、そして江戸文化の性格という観点から整理してみたい。
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300年の「ミッシングリンク」
最大の疑問点は、時間の断絶である。
麩の焼きが登場するのは、千利休の時代、すなわち安土桃山期である。
一方、文字焼きが都市文化として姿を現すのは、江戸後期から幕末にかけてである。
このあいだには、実に約300年の空白が存在する。
しかも問題は、単なる時間差だけではない。
- 食べられていた地域が異なる
- 享受していた階級が異なる
- その300年間に、麩の焼きがどこで何をしていたのか分からない
という、三重の断絶がある。
分かっているのは、麩の焼きが茶事の世界、すなわち上流文化の中では連綿と生き残ってきた、という事実である。
茶の湯の世界は「型」と「継承」を重んじる。
千利休に由来する菓子が、オマージュとして残り続けるのは、むしろ自然なことだろう。
しかし、それが庶民文化へと降りていった形跡は、少なくとも記録の上では確認できない。
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「庶民も食べていたのでは?」という仮説への疑問
「記録に残っていないだけで、実は庶民の間でも食べられていたのではないか」そう考える人がいるかもしれない。
だが、江戸時代、とりわけ後期という時代を考えると、この仮説は弱い。
江戸後期は、驚くほど記録が多い時代である。
食べ物、風俗、流行、戯作、見世物──ありとあらゆるものが書き残されている。
その中で、文字焼きについての記述は存在するにもかかわらず、「麩の焼きがルーツである」と明記した史料は、今のところ見当たらない。
誰かがそう考えていたのであれば、誰かがどこかに書き残していてもおかしくない。
だが、それが見つからない。
これもまた、無視できない事実である。
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上流の食が庶民化するには「理由」が要る
確かに、上流階級の食文化が庶民に降りてくる例は存在する。
砂糖がその典型だろう。流通革命が起き、沖縄や奄美で生産された砂糖きびが大量に入ってくることで、価格が下がり、一般化した。
小麦粉も、製粉技術の進歩によってコストが下がり、近代以降は巨大産業となった。
寿司もまた、保存食・高級食から屋台食へと姿を変え、庶民のものとなった。
重要なのは、必ずそこに技術革新や流通構造の変化といった「理由」があるという点である。
では、麩の焼きに関して、同様の理由は存在しただろうか。
現時点で、それを裏付ける材料は見当たらない。
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そもそも江戸とは、どういう場所か
ここで視点を大きく変える必要がある。
江戸は徳川幕府の所在地であり、政治・行政の中心ではあった。
しかし、日本の「首都」はあくまで京都であり、それを経済的に支えたのが大阪である。
京と阪は文化的にも極めて近く、「京阪文化圏」を形成していた。
その京阪から見れば、江戸は新興の都市であり、武士の田舎者が集まる場所だった。
「東夷(あずまえびす)」という言葉が象徴するように、どこか野蛮で、洗練されていない存在として見下されていた。
つまり江戸は「伝統」を持たなかった。
その代わりに、江戸は自分たちの文化を自力で作り出す必要があったのである。
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江戸文化は「アンチ京阪」である
文化文政期、いわゆる化政文化の時代に、江戸の町民文化は一気に花開く。
この文化の根底にあるのは、明確なアンチ京阪の精神である。
京阪が「伝統」や「技の粋」を誇るなら、江戸は「当世」「今様」を掲げる。
「通(つう)」という言葉が好まれたのも、その表れだろう。
食文化も同じである。
京阪が鱧や鯛を尊ぶなら、江戸は鰹を誇る。
京阪が洗練された伝統的な料理なら、江戸は蕎麦を自らの食と定義する。
これは模倣ではない。
対抗であり、自己定義である。
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「粋(すい)」と「粋(いき)」の違い
同じ漢字でも、意味が違う。
京阪の「粋(すい)」が技術や芸の到達点を指すなら、江戸の「粋(いき)」は、生き方そのものを指す。
表に出さない美学。
裏地に凝る着物。
あえて説明しない態度。
これは、プラスの美学ではなく、どこかマイナスの、内向きの美学である。
長く田舎者として扱われてきた者たちが、ようやく手に入れた自分たちの文化。
そこには皮肉と反骨が染み込んでいる。
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麩の焼きが文字焼きになる、という違和感
この江戸文化の文脈において考えると、疑問はさらに強まる。
京阪の、しかも上流階級が楽しんでいた茶菓子を、江戸の町民がありがたがって真似るだろうか。
江戸文化の成り立ちを見れば、その可能性は極めて低い。
江戸は常に歯向かってきた。
蕎麦も、鰹も、味付けも、生き方も、すべてが「俺たちは違う」という宣言だった。
その江戸が、三百年前の京の上流文化を下敷きに、自らの粉もの文化を作った──
どう考えても、納得できない。
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結論として
以上の理由から、僕は次の二点を大きな根拠として、
- 300年に及ぶミッシングリンク(時間・階級・地域の断絶)
- 江戸文化そのものがアンチ京阪として成立していること
この二つにおいて、麩の焼きが文字焼きの直接的なルーツであるとは考えにくい、という結論に至っている。
もちろん、これは現時点で僕が調べ得た範囲での結論に過ぎない。
新たな史料が見つかれば、考えを改める必要があるかもしれない。
だが、ファクトを積み上げていく限り、今のところは、この結論以外に行き着かないのである。
本稿が、皆さまが粉ものの歴史を考える際の、一つの視点となれば幸いである。