はじめに
この三連休、茨城県を中心にあちこち旅していた。
一般的な観光地を巡り、写真を撮るような旅はあまり好みではない。
むしろ、自らが興味ある場所に行き、自分の目で見て、自分の頭で考えることに興味がある。
今回の旅の最大の目的は、茨城県大洗町にある月の井酒造を訪れることだったのだが、その前後でいくつかの場所を巡った。
その中で、今回は靖国神社と遊就館について書いておきたい。
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靖国神社ではなく「遊就館」に行きたかった理由
目的は靖国神社そのものへの参拝ではなかった。
関心があったのは、境内にある遊就館である。
https://www.yasukuni.or.jp/yusyukan/
いわゆる「靖国問題」、つまり政治家の靖国参拝に対して、中国や韓国が反発するという構図について、僕はこれまで十分に理解できていなかった。
マスコミが「問題だ」と報じているから問題なのだろう、という受け止め方は、さすがに思考停止だと感じていた。
ならば、自分の目で見て、実際に展示を確認し、何がどのように語られているのかを知るべきだ。
そう考えて、以前から一度は訪れたいと思っていたのだ。
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遊就館が生まれた背景──明治維新という成功体験
結論から言えば、遊就館がなぜ作られたのかはよく理解できた。
明治維新は、日本にとって極めて大きな成功体験である。
封建的な武士社会から近代国家へと舵を切り、日清戦争、日露戦争を経て、日本は列強の一角に加わった。特に日露戦争は、アジアの国が初めて欧州列強に勝利した戦争として、世界史的にも大きな意味を持つ。
その後、歴史は複雑にねじれ、第二次世界大戦へと向かっていくが、今日に至るまで日本がG7の一員であることのルーツは、やはり明治維新の成功にあると僕は考えている。
しかし、その道のりは決して平坦ではなかった。
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内戦と「武士の終わり」
明治維新の過程では、戊辰戦争があり、西南戦争があった。
旧体制を維持しようとする勢力と、新しい国家像を模索する勢力との衝突である。
特に西南戦争は、「武士の時代の終わり」を象徴する出来事だったように思う。
西郷隆盛をはじめ、薩摩武士たちは、どこか「どう死ぬか」を決めるために生きているような、極端に研ぎ澄まされた侍精神を体現していた。
これはあくまで私個人の解釈だが、彼らは最後に武士としてのケリをつけるために死んでいった──そう俯瞰して見ると、一定の納得感はある。
こうした内戦を含め、多くの死者の上に、現在の日本が成り立っているという認識に異論の余地はない。
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遊就館の本質──「残された人」のための施設
靖国神社が英霊を祀る場所であること、そして遊就館がその延長線上にある施設であることも理解できる。
遊就館の根本的な役割は「あなたの子ども、親、友人、恋人は無駄死にではなかった」と、残された人々の心をケアすることにあると感じた。
日本には、敗者であっても、志を持って戦った者を祀る文化がある。
平将門が祀られていることなど、その象徴だ。
この感覚は、日本文化として理解できるし、否定するつもりもない。
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大東亜戦争以降で、何かが変わる
しかし、展示が第二次世界大戦、いわゆる大東亜戦争に入ったあたりから、強い違和感を覚え始めた。
例えば、人間魚雷「回天」。
人が魚雷に乗り込み、敵艦に体当たりする兵器である。
展示では「本来、海軍は認めていなかったが、作られてしまった」というような説明がなされている。
しかし、作られてしまったからといって、なぜ実際に運用されたのか。
その責任の所在は、極めて曖昧なままだ。
沖縄戦についても同様である。
本土決戦の時間稼ぎのため、沖縄の人々を事実上見捨てたという側面について、自己反省はほとんど見られない。
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美談化と、欠落している「自己反省」
ひめゆり学徒隊に関する展示もそうだ。
「よく戦った」「立派だった」という美談が前面に出る一方で、なぜ彼女たちがそのような状況に追い込まれたのか、国家としての責任はほとんど語られない。
途中から、正直なところ、僕はかなり腹が立っていた。
これだけの国民を、これだけ無理な形で死なせておきながら、その死に至る判断や構造への反省が、あまりにもない。
これでは、中国や韓国が反発するのも理解できる、と感じた。
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一方的すぎる展示が生むもの
私は、遊就館のような施設そのものが不要だとは思っていない。
むしろ、残された人の心を慰める場として、存在意義はある。
だが、展示があまりにも一方的で、フラットさを欠いている。
その結果、本当にひどい目に遭った人々(国内外を含めて)へのケアが、著しく不足しているように感じられた。
東京裁判が一方的だったことは事実だと思う。
だが、それを強調するあまり、自らの過ちや責任から目を背けてしまっては、結局、同じ過ちを繰り返すことになる。
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おわりに──自分の目で見て、考えるということ
靖国神社は、立派な神社であり、広大な敷地と厳かな空気を持つ場所である。
その存在自体を否定するつもりはない。
ただ、遊就館の展示については、「これはないだろう」と思う部分が多かった、というのが率直な感想である。
だからこそ、ぜひ多くの人に実際に足を運び、展示を自分の目で見てほしい。
僕と同じ結論に至る必要はない。
自分なりの考えや意見を持つこと。
それができて初めて「靖国参拝とは何か」という問題について、他人の言葉ではなく、自分の言葉で語ることができるようになるのではないか。
そう強く感じた訪問だった。