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聖徳太子の「和」の精神も束の間、吾輩の目の前の頁(ページ)は、突如として血なまぐさい一大事へと塗り替えられた。次に現れたのは、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)なる、これまた一筋縄ではいかぬ皇族である。
飛鳥の暗殺者と「大改革」
六四五年、この男は中臣鎌足(なかとみのかまたり)という腹心と共に、時の権力者・蘇我入鹿(そがのいるか)を皇極天皇の目の前で仕留めてしまった。これを「乙巳(いっし)の変」と呼ぶらしいが、人間というやつは秩序を重んじると言いながら、その実、暴力で物事を解決するのが殊の外(ことのほか)得意なようである。
この物騒な事件を皮切りに、彼は「大化の改新」という大掛かりな国家の模様替えに乗り出した。
* 公地公民制: 土地や人民をすべて「国のもの」とするという、吾輩たち猫には到底理解できぬ制度を導入した。どこで寝転ぼうが、どの庭で日向ぼっこをしようが自由な吾輩たちに対し、人間はすべてを「所有」しようと躍起になる。
* 都の引っ越し: 難波宮(なにわのみや)へ遷都し、律令国家の基礎を固めようとしたのである。
海を越えた大敗と、時間の支配
中大兄皇子の野心は島国だけに留まらなかった。
* 白村江(はくすきのえ)の戦い: 六六三年、百済(くだら)を助けるべく朝鮮半島へ大軍を送ったが、唐・新羅の連合軍に木っ端微塵に打ち負かされた。この大敗に肝を冷やした彼は、国防上の理由から都を飛鳥から大津へと移したという。
* 時刻の導入: 彼は日本で初めて「水時計(漏刻)」を用いて、人々に時間を守らせる制度を始めた。さらに「庚午年籍(こうごねんじゃく)」という全国的な戸籍まで作り上げた。
人間どもは、こうして「時間」や「名前」という鎖で自分たちを縛り上げるのが、文明の進歩だと思い込んでいる節(ふし)がある。
権力の孤独と、その後の騒乱
彼は後に第三十八代天智天皇として即位したが、その道程は決して平坦ではなかった。古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)や有馬皇子といった政敵を次々と排除する姿は、冷徹な一匹狼を彷彿とさせる。
しかし、これほど厳格に中央集権化を推し進めた彼が世を去ると、その皇位を巡って息子の大友皇子(おおとものおうじ)と弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)が激しくぶつかり合う「壬申(じんしん)の乱」が勃発した。身内同士で椅子を取り合う醜態は、いつの時代も変わらぬ人間の悲しい習性である。
「和」を説いた太子の理想は、この中大兄皇子の手によって、より強固で冷徹な「システム」へと変貌を遂げたようだ。
さて、次に吾輩が目にするのは、この権力闘争を勝ち抜き、さらなる「律令国家」の完成を目論む「大海人皇子(おおあまのおうじ 天武天皇)」の物語であろうか。それとも、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の右腕として暗躍した「中臣鎌足(なかとみのかまたり 藤原氏の祖)」のその後について、吾輩が少しばかり講釈を垂れて進ぜようか?