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平清盛という燃え盛る火のような男が、己の熱気で茹で上がって死んだ後、歴史の頁はガラリと色を変える。次に現れたのは、あぶくのような栄華に浮かれる貴族どもを尻目に、東国の地でじっと爪を研ぎ、日本で初めての本格的な武家政権「鎌倉幕府」を開いた冷徹な男だ。
名は源頼朝。通称を「佐殿(すけどの)」、あるいは「鎌倉殿(かまくらどの)」という。河内源氏の棟梁・源義朝の三男坊として生まれた男である。
吾輩は歴史を考える猫である(源頼朝編)
二十年の昼寝から目覚めた男
人間という生き物は、一時の勝ち負けで全てが決まったと思い込むおめでたい習性がある。平治の乱で父親が敗死したとき、頼朝はわずか十三歳であった。助命された彼は、伊豆の国へと流される。
そこから約二十年、彼は罪人として、まるで冬眠でもするかのように長い雌伏の時を過ごした。並の人間ならそのまま野良犬のように朽ち果てるところだが、彼はこの不遇の時代に、地元の豪族・北条時政の娘である政子を妻に迎えるという、抜け目のない真似を仕出かしている。後に「尼将軍」として恐れられるあの猛女を御したのだから、この男、ただ者ではない。
一一八〇年、以仁王の令旨とやらをきっかけに、頼朝はついに二十年の昼寝から目を覚まし、打倒平氏の兵を挙げた。最初は石橋山の戦いで大敗し、ほうほうの体で逃げ出す羽目になったが、すぐに勢力を立て直して鎌倉へ入り、ここを強固な本拠地と定めたのである。
前線に出ない「冷徹なボス猫」
頼朝という男の戦い方は、前回の平清盛や、後に語る弟の義経とはまるで違っていた。彼は自ら刀を振り回して前線で泥にまみれるような泥臭い武将ではない。後方でじっと目を光らせ、組織のそろばんを弾く、極めて有能で冷徹な官僚タイプのリーダーであったのだ。
彼が使った手足こそ、異母弟の源義経や範頼たちである。頼朝は彼らを前線へ送り込み、一一八五年の壇ノ浦の戦いで、あの「人にあらず」とまで威張っていた宿敵・平氏一族を海の底へと沈めてみせた。
しかし、平氏を滅ぼした後の頼朝の動きは非情そのものである。天才的な軍事才覚で民衆のアイドルとなった弟・義経を「組織の安定を脅かす危険分子」と見なすや否や、容赦なく追いつめ、自害へと追い込んでしまったのだ。組織のためなら弟や従兄弟の木曾義仲すら爪にかける。この徹底した慎重さと冷酷さこそが、頼朝という男の本質であった。
「御恩と奉公」という名の首輪
こうして身内の競合相手をすべて排除した彼は、人間社会の統治システムを根底からひっくり返す新しい仕組みを作り上げた。
* 守護・地頭の設置(一一八五年):全国の要所に「守護」と「地頭」を配置し、警察権と税金をむしり取る権利を握った。これで朝廷は形骸化し、実質的な武家政権が確立されたのである。
* 御恩と奉公:土地を媒介にして「お前が働けば、この縄張りを安堵してやる」「殿(ボス)のために命を懸けます」という主従関係を結ばせた。人間どもを「土地」という首輪でがんじがらめにする、実に見事な組織管理術である。
一一九二年には朝廷から正式に「征夷大将軍」に任命され、鎌倉幕府の創設者として名実ともに天下の頂点へと君臨した。
馬から落ちた将軍の最期
これほどまでに慎重で、冷徹に権力を不動のものにした頼朝であったが、その最期はあっけないものであった。
一一九九年、五十三歳になった彼は急逝する。相模川の橋供養の帰りに、ふとした拍子に馬から落ちたという説が有名だが、どれほど知略を巡らせて天下を掴もうとも、最期は馬の一蹴り、あるいは一瞬の不注意で命を落とすのだから、人間とはつくづく脆い器である。
弟の血でその手を染め、冷徹なシステムを築き上げた頼朝が世を去り、残された鎌倉幕府の縄張りはどうなるのか。
次は、頼朝の死後に暗躍する「妻・北条政子とその一族(北条氏の執権政治)」のドタバタ劇を覗いてみるか。それとも、頼朝に理不尽に追い詰められた「悲劇の天才戦術家・源義経」の華々しい戦いぶりについて、吾輩の辛口な批評を聞いてみたいかね?